さきに「不幸な考え方」としたものは、ものごとを丁寧に考える習慣を無くしたことから生まれるもの… 現代の世界に、人間を無視した右翼暴力政権が存在するのは、ものを考えなくなった人間があまりにも多くなってしまったからだろう… 連載 超訳プロレゴメナ 264 プロローグ編 41
補足を含めた第13節が終わろうとしている。これで、プロレゴメナでの形而上学入門編ともいえる箇所が終わることになる。
これで、いよいよカントの主題ともいえる超越論と格闘するための準備が整ったと言えるだろう。
しかし13節以前が、今後も不要になることもない。そこには人間の忘却に対抗するための復習もあるには違いない。しかし、新たな発見のための13節以前の再読が求められるという事実のほうがかなり大きい。
たとえば超越という言葉も、その深い意味が明快になり始めるのは、弁証論や、アンチノミー、そしてテーゼ/アンチテーゼなどに、取り組みだした時点からだからだ。
それは、ある意味では、抽象度が高いプロレゴメナ前半より、話が具体的になることで読者も、分析・総合、ア・プリオリを実感として捉えることが可能になるからだろう。
しかし、かなり話が先走ってしまった。以上は、14節に入ればすぐに登場するような話題でない。ただ必要なことは、プロレゴメナのどこをとっても不要な個所は、まったくないということだけだ。
これだけは、プロレゴメナの読者はつねに心に止めておいてもらいたいと願っている。
さてここからようやくだが、第13節補足3での重要な課題に触れていくことにする。
後に、「コペルニクス的転回」と題される考え方にたいして再度の強い主張が試みられている。それは、現代でもなお残る、不幸な考え方にたいする警告ともいえる。
カントは空間と時間は、人間の認識で初めて存在可能とした。しかしそれとは反対に、オブジェクト(もの)自体に空間と時間が属するとする、無思考が生んだとしか思えない考え方はいまでも根強い。カントはその指摘に続いて下記を示している。
感性の全体を単なる仮象にしていると非難もあるが、まったく当たっていない。『純粋理性批判』を、丁寧に読めば解ることだが、認識に関する重要なこととして、数学がア・プリオリに提案するものを、実際の対象物に確実に適用することを保証するのが、ぼくが掲げたものであり、かつ唯一の手段なのだ。
この唯一という言葉を、ぼくは強調する。なぜならば今までにここに書いてきたことだけでは、空間と時間に関するものが、ぼくたちの中にア・プリオリに存在することを理解できずに、ぼくの幻想と捉えられることも、あると考えられるからだ。繰り返しになってしまうが、理解しながら丁寧に読んでくれば、良いとは思うのだが…
つまり、さきに「不幸な考え方」としたものは、ものごとを丁寧に考える習慣を無くしたことから生まれるものと言える。
現代の世界に、人間を無視した右翼暴力政権が存在するのは、ものを考えなくなった人間があまりにも多くなってしまったからだろう。
さらにカントは自身の考え方を観念論としながらも、現実の根づくものであり、妄想や幻想とは無縁なものだと主張している。
ここには、オブジェクト(もの)自体は認識できなくとも、オブジェクトが形成する現象からの仮象が、認識の主体だとの確固とした姿勢が観える。
だから、オブジェクトそのものは認識できないが、オブジェクトの存在が必要不可欠なものとしていることになる。そこにはマルクスが後に説く、唯物史観に似たものさえ、ぼくには観えている…
まだ書き足らないが、それは読書会の中で、いろんなテーマとして上げれることを、期待している。
