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ぼくたちに残されたのは、ア・プリオリに総合的な命題だけとなった。これを解決するには、矛盾則ではない別の原理に頼る必要がある… しかしその命題が可能かどうかを、問うことも確立することも必要ない… 連載 超訳プロレゴメナ 176 本編28

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『プロレメゴメナ』の一般的な問い
 
第五節 純粋な理性からの認識が可能なのは、どうしてなのだろう?
 
 ここまでに分析的判断と総合的判断がどう違うのかを、その重要な面に対して観てきた。その結果、君たちは(総合的判断は靄の中かもしれないが)分析的な命題が容易く理解できたはずだ。
 なぜならば、分析的な命題は単に矛盾則に基づいているからだ。それは経験の結果として導き出されたもので、考察や探索の結果ではない。つまり事後的な判断で集められた総合体に対して特別な説明は必要ないと言える。ここに出てきた総合は、総合とはまったく違うものだと注意してほしい。
 こうしてぼくたちに残されたのは、ア・プリオリに総合的な命題だけとなった。これを解決するには、矛盾則ではない別の原理に頼る必要がある。
 ぼくたちに残されたのはその可能性の探索と考察となった。
 
 しかしその命題が可能かどうかを、問うことも確立することも必要ない。
 なぜならこの命題は、すでに疑う余地がない確実性をもっているからだ。ぼくたちがこれから取るべき方法は、分析的であるのは疑いない。すなわち総合的で純粋に合理的な認識が目前に実際に存在するという事実から始めるわけだ。
 しかしそれを進めるなかで、ある問いが生まれてくるのをぼくたちは気づくはずだ。
 この可能性の理由、その使用条件、その範囲、その限界はどうすれば決定できるのか。そしてそれらの認識がどうすれば可能なのかを問わなければならない。
 その問いは下記のように表現できる。
 
 ア・プリオリに基づいた総合的命題は可能なのか?
 これがぼくたちの問いを、科学として適切な正確さで表現したものだ。
 
 このタイトルは、通俗的ともいえるだろう。ぼくはあえて意識してこう書いた。
 ぼくはこの問いを、純粋理性の認識の探索として少しだけ異なる表現をしたが、求める理解を損なうことなく妥当な表現が実現できた。ここでは形而上学とその情報源についてのみを問題にしているからだ。
 ここを読んでいる君たちには、下記を心に留めておいてもらうことを望んでいる。
 いままでに表わしたことを土台にして、純粋な理性の認識を考える際には、分析的な認識を対象にするのでなく、総合的な認識を対象にしなければならない。
 
 形而上学は、この問いに答えることができなければ壊滅するだけだ。この問いには形而上学の存亡がかかっている。
 だれかが形而上学を対象にもっともらしいことを語って、ぼくたち圧倒させたとする。だがそれがこの問いに答えることができてないならば、そのすべて空論であり根拠のない哲学であり、誤った考え方だとぼくは言う。それこそが正当される考え方だと確信する。
 君は純粋な理性を語り、いわばア・プリオリに認識を生み出すように主張する。与えられた概念を分析するだけでなく、矛盾則によらず、すべての経験からまったく独立して発見したと思い込んだ結合を主張している。しかし君は、どのようにしてここに到達し、どのようにして自分の主張を正当化できたのか?
 それを常識に訴えることは許されない。なぜならば常識は、世間の噂に依拠したものに過ぎないからだ。
 ホラチウスはこう言っている。
 
 " Quodcunque ostendis mihi sic, incredulus odi."
 君がぼくに示すすべてを、ぼくは信じない、そしてこれを嫌う。

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