見出し画像

この問いが何を要求しているのかを注意深く考察すれば、必ず最初はその難しさにうんざりしてしまい、この問いには答なんかあり得ない思っても当然だ。 …純粋な総合的認識が、ア・プリオリに存在するなんて、どう解決するつもりなんだ!… 連載 超訳プロレゴメナ 177 本編29

176

第五節(承前)
 
 この問いに対する答えは欠かせない。同時に答えを出すのがあまりに難しい。多くの人たちが今日までの長い時間で答えを出せなかったのも当然だろう。しかしその前にこの問いそのものを、思いつことがなかったことも理由にあげられる。
 だがさらに別の理由があったのだ。
 この一つの問いへの満足できる答え求めるには、多くの我慢強さと深い熟考が求められるということだ。すでに巷には、いくつかの形而上学の著書があり、その著者に不朽の名声を約束したものある。だがこの問いで求められる我慢強さと熟考は、さらに大きいものだ。
 この問いに向かい合った人が、知的で優れた理解力を持っていたにしても、この問いが何を要求しているのかを注意深く考察すれば、必ず最初はその難しさにうんざりしてしまい、この問いには答なんかあり得ない思っても当然だ。 …純粋な総合的認識が、ア・プリオリに存在するなんて、どう解決するつもりなんだ!
 デイヴィッド・ヒュームの場合が、実際にそうだった。
 ただし彼は、ここで行われているようにこの問いを一般的な形で念頭に置いていたわけではなかった。したがって形而上学にとって全体に決定的であるべき答えを見出す必要も、強くは考えてはいなかったと思われる。
 鋭敏だった彼は言っている。
 ある概念が与えられたとき、この概念のうちに含まれたものが、先に概念を飛び越えて、その概念に含まれていない別の概念と結びつくことができるのか?
 そうした結合を与えてくれるのは経験のほかには何もない(こうして彼はここに解決の不可能をみてある結論を行った)、必然性のすべて、あるいは同じことだが、必然的とされたア・プリオリな認識は、長年の習慣で何かを真実として受け入れ、そのために主観的な必要性を客観的なものと取り違えたに過ぎない、と。
 
 本書を読んでいる人の中に、問題解決のためのぼくが主張する方法が、厄介なもので困難ばかりを感じられてならない、と人もいるだろう。そんな不満があれば、ぼくに従わずに君が思いついた方法でやれば良い。
 その人たちは、簡単で自由な方法で問題を解決することができるだろうか?
 おそらくその人たちは、自分のために非常に深い研究の労力を引き受けてくれた人がいたことに感謝するはずだ。そして、主題の性質を考慮してぼくが主張したものが、容易く解決に達することに驚くことになるに違いない。
 だが読者がここに観る形での分析的な形で示すのは容易いことではなかった。この問いをその普遍的に(数学的な意味で、すべての場合に十分であるという意味で)解決するために、何年もの労力を要したが事実なのだ。

178

いいなと思ったら応援しよう!