可能性の理由、その使用条件、その範囲、その限界はどうすれば決定できるのだろうか? この問いに答えることそのものが形而上学の使命だった… 連載 超訳プロレゴメナ 175 プロローグ編26
第4節で分析的判断と総合的判断の相違が明らかになった。それを前提にして、第5節の冒頭では、ア・プリオリに総合的な命題の探索と考察が可能になったと宣言される。
そして、この探索と考察では、命題が可能であるかを問う必要ないと告げられる。
しかしその命題が可能かどうかを、問うことも確立することも必要ない。
なぜならこの命題は、すでに疑う余地がない確実性をもっているからだ。ぼくたちがこれから取るべき方法は、分析的であるのは疑いない。すなわち総合的で純粋に合理的な認識が目前に実際に存在するという事実から始めるわけだ。
だが、命題を問わないにしても、可能性の理由、その使用条件、その範囲、その限界はどうすれば決定できるのだろうか? カントはそれについて下記のように語る。
ア・プリオリに基づいた総合的命題は可能なのか?
これがぼくたちの問いを、科学として適切な正確さで表現したものだ。
このタイトルは、通俗的ともいえるだろう。ぼくはあえて意識してこう書いた。
ぼくはこの問いを、純粋理性の認識の探索として少しだけ異なる表現をしたが、求める理解を損なうことなく妥当な表現が実現できた。ここでは形而上学とその情報源についてのみを問題にしているからだ。
ここを読んでいる君たちには、下記を心に留めておいてもらうことを望んでいる。
いままでに表わしたことを土台にして、純粋な理性の認識を考える際には、分析的な認識を対象にするのでなく、総合的な認識を対象にしなければならない。
この問いに答えることそのものが形而上学の使命だった。もし答えることがなければ、形而上学は成り立たず空論に終わってしまう、これがカントの確信だった。
君は純粋な理性を語り、いわばア・プリオリに認識を生み出すように主張する。与えられた概念を分析するだけでなく、矛盾則によらず、すべての経験からまったく独立して発見したと思い込んだ結合を主張している。しかし君は、どのようにしてここに到達し、どのようにして自分の主張を正当化できたのか?
それを常識に訴えることは許されない。なぜならば常識は、世間の噂に依拠したものに過ぎないからだ。
ここに根拠不明の世間の常識を嫌った、カントの基本的な姿勢が観えている。しかしその姿勢を貫くこともかなり困難で忍耐力が要求されるものだった。
この問いに向かい合った人が、知的で優れた理解力を持っていたにしても、この問いが何を要求しているのかを注意深く考察すれば、必ず最初はその難しさにうんざりしてしまい、この問いには答なんかあり得ない思っても当然だ。
第177回 本編29
ここまで読むと、面倒なことばかりが山積みされているようにしかみえない。しかしその問題は、これからカントが解き明かしていくことを、読者に対して予告もしていた。
おそらくその人たちは、自分のために非常に深い研究の労力を引き受けてくれた人がいたことに感謝するはずだ。そして、主題の性質を考慮してぼくが主張したものが、容易く解決に達することに驚くことになるに違いない。
だが読者がここに観る形での分析的な形で示すのは容易いことではなかった。この問いをその普遍的に(数学的な意味で、すべての場合に十分であるという意味で)解決するために、何年もの労力を要したが事実なのだ。
以上は、形而上学の前提を語る予告に過ぎない。なぜなら、形而上学の主題については、何もまだ書かれていないからだ。それは明確に書かれ始めるのは第5節の後半となる。
その意味では、第5節前半を対象にしたディスカションは、形而上学に関するカントの心がまえを語ることだけに、終始するに違いない。
