ア・プリオリの概念は、カント以前から存在していたが、経験以前の世界を神の領域と観るドグマが優先していた。またそこに形而上学の危機的な状況もあった… しかし、カントは経験世界の領域を明確にし、その域外を超越論的世界として見定めた。そしてその領域内であっても経験だけでは理解できない世界があることを明確に示した… 連載 超訳プロレゴメナ 289 プロローグ編47
カントの著作の大半に眼を通していれば、彼が経験を重視していたことはよく判る。しかし、そうではなかったような気分に、ときおりだが陥ることがある。
それは、カントが経験主義を否定する立場にいたことが、大きいのだろう。
プロレゴメナのまえがき(プロレゴメナのプロレゴメナと言うほうが正しいかもしれないが…)でも、経験主義の弊害が語られている。それはすべての事象の根源を、経験から解き明かすことで、人間の認識の本質を隠蔽し、経験では及ばない理念の世界を閉ざしてしまう弊害と言ってよかった。
ア・プリオリの概念は、カント以前から存在していたが、経験以前の世界を神の領域と観るドグマが優先していた。またそこに形而上学の危機的な状況もあった。
しかし、カントは経験世界の領域を明確にし、その域外を超越論的世界として見定めた。そしてその領域内であっても経験だけでは理解できない世界があることを明確に示した。
その最大の世界は、空間と時間が占める世界だった。
この世界は、経験の領域内にありながらも、人間の想像力が生みだした世界と言ってもいい。
人間が考え想像するからこそ、空間と時間が存在し、もし人間が思考を停止するようなことがあれば、空間も時間も存在しなくなる。これはカント自身が、後に「コペルニクス的転回」と名づけた基本的な理念が生みだしたものだった。
以上の観点に立てば、カントにとっても経験は重要な意味を持つことを理解することは容易いことだろう。人間の理念は経験があってこそ生みだされるものなのだ。
ただし重要なのは、経験が与える事象(現象)を基にし、演繹を施し新しい概念を生みだす想像力(構成力)の作業が存在することだ。これこそが、理解力が構築していく理性の世界だ。
以上は、プロゴメナでも早くから解き明かされてはいたが、与える事例が純粋数学の域を出ないために、読者にとっては、けっして明確なものとはいえなかった。
だから、プロレゴメナ読書会のなかでも、戸惑いの声も多く聞こえていた。しかし戸惑い迷いながらもどこかで真理に到達するはずだとの信念に似たものが、今日まで読書会を継続させてきた。
そして、プロレゴメナの14節以降に至って、ようやくその真理が観えだしたとも言っていいだろう。
ここで取り上げるのは、経験がなくては語ることができない「自然」なのだ。
