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経験から事象の知識を得ることは、事象の観察後の事態としてア・ポステリオリと表現するのは当然だが、それだけで終わるものだろうか? 多くの事象の観察を経ていけば、予測も可能となり、そこから演繹して、自然法則を新たに生みだすことも可能になる。ガリレイの落下の法則、ニュートンの万有引力の法則も、演繹の結果と言っていい。そこに到達するまでには、想像を絶する忍耐が必要だったにしても…  連載 超訳プロレゴメナ 290 プロローグ編48

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 カントは『純粋理性批判』第二版の序論の中で、下記を指摘した。

 純粋な自然科学にたいしては、その存在が現実的なものかどうか、それに疑問を持つ人も多いに違いない。けれども、(経験として観ることができる)適切な物理学の事象についての命題を調べていけば、その疑問は解消していくはずだ。たとえば、物質の量の持続性、慣性、作用反作用の法則など、物理事象として現れているいくつかの命題を検証することで、それが純粋(あるいは合理的)な物理学を構成していることがすぐに理解できるはずだ。その範囲が、狭いとか広いとか違いがあるにしても、独立した科学として確立される価値があると、多くが確信する結果になることは疑いない。

超訳 純粋理性批判117序説編 42

 ここには自然科学とあるが、その科学としても規則(人間が見出すというほうが正しいかもしれないが)を創り出す自然そのものが対象になっているのは明らかだろう。
 さらにここに「経験」が観えることが重要だと言っていい。経験から事象の知識を得ることは、事象の観察後の事態としてア・ポステリオリと表現するのは当然だが、それだけで終わるものだろうか? 多くの事象の観察を経ていけば、予測も可能となり、そこから演繹して、自然法則を新たに生みだすことも可能になる。ガリレイの落下の法則、ニュートンの万有引力の法則も、演繹の結果と言っていい。そこに到達するまでには、想像を絶する忍耐が必要だったにしても…
 
 また、演繹操作の果てには、経験では成り立たないものまでにも想像することも可能になるだろう。それは人間が考えることを、生きがいにする生物だからと言って言いはずだ。
 
 下記はその果ての事象のなかから得られた思考の結果とも観ることができるのではないか?

 経験の対象になり得ないものの認識は超自然的なものになるだろう。ぼくがここで扱おうとしているのは、そんなものではない。ア・プリオリに可能であって、経験に先立つことがあっても、その現実性が経験で確認できる「自然の認識]なのだ。これこそが何よりも先験的に可能であり、すべての経験に先立つものとなる。

第291回 本編48

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