ぼくたちの理解力、それが物の存在を結びつける条件は、物それ自体にはどんな規則も指示しない。これはぼくたちの理解とは一致しないように観えるが、物自体からは一致していると言えるのだ。なぜなら、理解力は物自体に従うものだからである… 連載 超訳プロレゴメナ 277 本編 46
超越論的な考え方の問い
第2章 純粋な自然科学はどうすれば可能になるのだろうか?
第14節
自然とは、普遍的な法則にしたがって決定されるという観点においてのみ物事の存在なのだ。自然がそれ自体の存在を意味するとしても、ぼくたちはそれをア・プリオリにもア・ポステリオリにも知ることはできない。
ア・プリオリに認識できないわけは、ぼくたちが物を知っているということから考えればいいだろう。はたして物自体に何が属しているかを、ぼくたちは知っていると言えるだろうか。ぼくたちの概念の分析(分析的命題)では、それはけっして知ることができないものである。なぜなら、ぼくが知りたいのは、物の存在でぼくたちの概念に何が追加されたかであって、物の概念に何が含まれているかではないからだ。
ぼくたちの理解力、それが物の存在を結びつける条件は、物それ自体にはどんな規則も指示しない。これはぼくたちの理解とは一致しないように観えるが、物自体からは一致していると言えるのだ。なぜなら、理解力は物自体に従うものだからである。これで下記が、確信として言えることとなった。
物そのものがア・プリオリに知られることはありえない。
さらに物自体の認識も、ア・ポステリオリに認識することも不可能だ。
なぜなら経験が、ぼくたちに物が存在として従う法則を教えるなら、それらの法則は、物自体の中にあるとしなければならないからだ。しかし経験は。ぼくたちに何が存在しそれがどのように存在するかを教えてはくれるが、なぜそのように必ず存在し、存在しなければならいか、決して教えてはくれない。
したがって経験は、物自体の本性をぼくたちに教えることは、けっしてできはしないのだ。
