理解力は、現象を通してオブジェクトに従いはするが、オブジェクトに規則を与えることはない。自然現象もぼくたちがコントロールして規則を与えることも不可能であって、ただ自然が創り出す規則を、ぼくたちは忠実に捉えるしか方法がない… 連載 超訳プロレゴメナ 276 プロローグ編45
第13節までで、形而上学の基本的な課題が形の上ではとき明かされたと、言ってもいいだろう。しかしそれは、基本的なものに過ぎない。
空間や時間の存在は、純粋数学の観点から抽象的には説き明かされたとは言える。しかしそれだけで、ぼくたちがこの世界に存在している(究極的には不可能な)根拠が、明確になったわけでもない。
ぼくたちの理解力で、空間や時間は一つの概念として確立はした。また理解力が、オブジェクトを現象として把握することで、この世界に、ものとしての存在と、ものの事象としての存在を明確なものにしていることも、明らかになったとは言える。そこでの空間と時間を含めた総合が、ぼくたちを未知の世界へ途を開いたともいえるだろう。
しかしそれで、この世界そのものが、ぼくたちにとって疑うことがない存在として観ることは可能になっただろうか?
ここまで、プロゴメナを読んできた人も、まだそうしたことを確信するまでになってはいないはずだ。もっともこれも究極的には不可能なものだが、理解力の活用で、真理に近づくことはできないものなのだろうか。
しかし、第14節でカントは下記のように語る。
ぼくたちの理解力、それが物の存在を結びつける条件は、物それ自体にはどんな規則も指示しない。これはぼくたちの理解とは一致しないように観えるが、物自体からは一致していると言えるのだ。なぜなら、理解力は物自体に従うものだからである。これで下記が、確信として言えることとなった。
物そのものがア・プリオリに知られることはありえない。
つまり理解力は、現象を通してオブジェクトに従いはするが、オブジェクトに規則を与えることはない。
だから、自然現象もぼくたちがコントロールして規則を与えることも不可能であって、ただ自然が創り出す規則を、ぼくたちは忠実に捉えるしか方法がないと言っていい。
先の引用に続いてカントは次を記す。
さらに物自体の認識も、ア・ポステリオリに認識することも不可能だ。
なぜなら経験が、ぼくたちに物が存在として従う法則を教えるなら、それらの法則は、物自体の中にあるとしなければならないからだ。しかし経験は。ぼくたちに何が存在しそれがどのように存在するかを教えてはくれるが、なぜそのように必ず存在し、存在しなければならいか、決して教えてはくれない。
したがって経験は、物自体の本性をぼくたちに教えることは、けっしてできはしないのだ。
ここまで読むと、人間が自然対して何もできない事実が示されている事実が示されているだけに観えるだろう。だが、そうした中からも、人間が自然に対してどう取り組んでいくかが、じょじょに明確化されていくことになる。
まだ先は長い… しかし、13節までの周り道を体験してきた者ならば、これも必ず楽しむことになることを、ぼくは疑わない!
