人間の存在の外に何かがあることは、確かなものなのだが、それがどういうものであるかは、捉えることは、不可能ということだ。しかしそれでも人間は、周りのもの(オブジェクト)や出来ごとに共存しして存在する(生きる)ことができている… 連載 超訳プロレゴメナ 275 プロローグ編44
3. 認識の源泉
プリレゴメナでは、「認識」という言葉は早くから登場はしているが、それが形而上学での思考の方法として、正式に書かれだすのは第13節の補足2が、最初になっている。
ぼくたちに対象として与えられるものは、そのすべてが直観で与えられなければならない。しかし、ぼくたちの直観はすべて感覚が行う仕事なのだ。それは理解されたものではなく、表象の反映でしかない。知覚として確立したものがある訳でもない。
さらにぼくたちは物を、それ自体として知ることもできない。感覚は単なる現象としてだけ物自体を知っているに過ぎない。ぼくたちを取り囲むこの空間とともに、そこに存在する物体に関しても、ぼくたちの中にある単なる表象だと考えなければならない。
ここにはまだ、「認識」という言葉は登場してはいないが、直観に与えられた結果が認識という行為の出発点となるであろうことは、以上からも十分の受け取ることはできるはずだ。
しかしカントの時代には、直観が取得したものから、対象となるものをどう捉えているのかが、確定してはいなかった。
そのために、幻想や、懐疑を伴った対象に認識は。多く流布している有様だった。その多くにたいし、カントは、直観で取得したものを信じているだけの観念論に過ぎない論駁してくことになる。そしてカント自身の考え方を、以下のように表わす。
ぼくたちの感覚の対象としての物体は与えられているが、ぼくたちはそれらが、それ自体がどのようなものかは、何も解ってないし知ってもいない。知っていることは物体の外見、それがぼくたちの感覚になにがしかの影響を与えていることで、ぼくたちの中にそれが引き起こす表象を知っているだけにすぎない。当然にしてぼくたちの外に物体があることを、ぼくも認める。そしてそれ自体が何であるかは、ぼくたちはまったく知らないが、その表象がぼくたちの感性にある影響を与えていることを知っている。この表象を物体とぼくたちは呼んでいるが、ぼくたちにとっては未知の物の外観を単に意味する用語すぎない。だがそれこそが現実の対象を意味するものなのだ。
つまり人間の存在の外に何かがあることは、確かなものなのだが、それがどういうものであるかは、捉えることは、不可能ということだ。
しかしそれでも人間は、周りのもの(オブジェクト)や出来ごとに共存しして存在する(生きる)ことができている。それは、もの(オブジェクト)が放つ現象を、表象として捉えることは人間にも可能なことだからなのだ。
これこそが、空間と時間の認識に関係する、重要な点だ。
これについては、第13節の補足3の中で以下のように指摘されている。
だから空間と時間について、ぼくが掲げた説は。認識に関する重要な意味を持つことになる。
感性の全体を単なる仮象にしていると非難もあるが、まったく当たっていない。『純粋理性批判』を、丁寧に読めば解ることだが、認識に関する重要なこととして、数学がア・プリオリに提案するものを、実際の対象物に確実に適用することを保証するのが、ぼくが掲げたものであり、かつ唯一の手段なのだ。
