なぜ自分がこの世界に存在しているのかを、問い始めると、周りの物事に疑問を持ち始める。それが、オブジェクトとして形あるものであれば、実体は把握できなくとも、その現象を捉えて一つの認識を確立できる。しかし、空間と時間についてはそういう訳にはいかない… それは現象ではない。だが、カントが書いたように純粋数学での認識の基本が、空間と時間で与えられる… 連載 超訳プロレゴメナ 274 プロローグ編43
2. 空間と時間
形而上学のテーマとして「空間と時間」が登場するのは、第10節からだ。そこにこう書かれている。
今はまだ認識できるには客観覚的直観の一つの形、現象にすぎないが、ぼくたちはそこから対象となるものを、それ自体ではなく、ぼくたちの感覚に写された姿として捉えることができていることを、知ることができる。
ここに与えられたものが、ア・プリオリな総合な問として可能なものとして認められるものであれば、あるいはそれらに実際に出会う場合にその可能性が事前に理解され決ものであるのなら、それらは必然的なものとして扱うことができる。
こうして純粋数学がそのすべての認識と判断の基礎に据える直観は、空間と時間で与えられることになる。つまり空間と時間は、明証的であると同時に必然なものとして登場している。なぜなら数学はまずそのすべての概念を直観で持たなければならず、純粋数学は純粋な直観でそれらを構築しなければならないからだ。
ここだけを読んで、理解するのは難しいかもしれないが、空間も時間もぼくたちの認識という結果としての存在なのだ。
何も考えない人間なら、空間も時間も、ただそこにあるだけのものであって、存在という用語さえ使うことが、不適当なものに過ぎない。しかし、なぜ自分がこの世界に存在しているのかを、問い始めると、周りの物事に疑問を持ち始める。それが、オブジェクトとして形あるものであれば、実体は把握できなくとも、その現象を捉えて一つの認識を確立できる。しかし、空間と時間についてはそういう訳にはいかない。
空間も時間も、あるようにはみえる(感じる)が。それは現象ではない。だが、カントが書いたように純粋数学での認識の基本が、空間と時間で与えられることになる。
ただ、超訳プリレゴメナの編纂者としてのぼくの立場からは、数学の認識の確立のために、空間と時間が考えだされた、そう考えている。
それはともかく、空間も時間も、人間が考えることで存在するものであるのが事実だ。そして、これが、「コペルニクス的転回」の発想を生みだす基本となるものだ。
こうしたことも頭が固い人間には思いつかないことかもしれない。しか
し、形而上学を広く知ってもらいたいっていう観点に立てば、自然に思い
つくことだったのではないか」
繰り返しになるが、カントが『エミール』を愛読書にするほどに、教育
的な観点に注目していたことを、ぼくは、見過ごすことができないのだ。
