報告書や研究成果をまとめるときは、まず材料となるものを集めてくるのは、とうぜんだ。しかし、集めたものをただ並べていけばいいってものじゃない… 内容的に重複していないかを時間をかけて検討し不要と観られるものは、捨てていかなければならない… 連載 超訳プロレゴメナ 273 プロローグ編42
前島幸太郎の発案で、2018年03月19日から始まった「超訳プロレゴメナ読書会だが、2019年3月23日に第13節を終えた。
プロレゴメナには、難所と呼ばれる個所がいくつかあるが、そのなかでも最大の難所は第13節だろう。そのため読書会でも、のべ6日の日数を要している。
次回からは、第14節に入っていくわけだが、ここまでの読書会で、学び取ることができた主要な点を拾い出し、その概要をここでまとめておくことにしたい。
それを、下記の三点に要約した形で書き記していくことにする。
1. 分析と総合
2. 空間と時間
3. 認識の源泉
また、上記に関連して、『純粋理性批判』第二版序文での「コペルニクス的転回」も、重要な意味をもつ。それについては資料として連載したものがあるから、それを参照していただきたい。
そのために、その初回と最終回のリンクを以下に示しておく。
それでは、先に掲げた概要を、順序を追って語ることにする。
1. 分析と総合
第3節で分析と総合について、下記のように書かれている。
人間の理解力を解釈するときには、必ず分析的であるか総合的あるかが核心となることが明らかだからだ。だから、この区分は典型的なものと呼んでも良いだろう。だが、この区分が理解力の批判以外のところで、これほどの効用を表すことがあることをぼくは知らない。
第163回 本編25
つまり、人間がものごとを理解していくためには、分析と総合という手続きが必ず必要になる、そういうことなのだ。
ぼくたちが、報告書や研究成果をまとめるときは、まず材料となるものを集めてくるのは、とうぜんだ。しかし、集めたものをただ並べていけばいいってものじゃない。集めた中には、言葉は違っても同じ内容を語っているに過ぎないものもある。そこで内容的に重複していないかを時間をかけて検討し不要と観られるものは、捨てていかなければならない。
さらに、残ったものについても、真に分析の対象になるものかも、やはり時間をかけて調べていかなければならない。そうしなければ、総合であるものまでが、そこに列挙されることになるからだ。
これについては、読書会の中では、取り上げた事例が単独で成立するかを、ディスカッションした。
ここではそれを抽象的な記述に変えて、普遍的な視点で観ていくことにする。
事例が、たとえば、「AはBである」だったとする。これは他の言いかえが不可能であれば、分析的な事例と言っていい。しかし、もし、「AはCでもある」などが可能であれば、それは分析的なものでなく、総合の段階で取り上げなければ、ならない。
ところが現実の社会でも、この部分が曖昧な報告書を目にすることが多い。
だから、分析と総合の手続きは、口で言うほどには、簡単なものじゃないってことだろう。これについては、第2節と第5節との間で行われた、文節の移動も重要な関連がある。
分析と総合についての結論的なものは、やはり上の指摘の後で書かれることこそが自然なことだとぼくには受け散れる。
だから、第2節にあったものを第5節に移動したのは、カント自身だったと、ぼくは確信するのだ。何もかもを、最初の状態に戻すってこと、それは頭が固い人間には必要なことかもしれないが、形而上学を広く知ってもらいたいっていう観点からでは不要なことでしかない。
カントが『エミール』を愛読書にするほどに、教育的な観点に注目していたことをぼくは、どうしても見過ごすことができない。
