冒頭に「簡単で取るに足らないと観える観察を無視した」と書かれているが、その観察とは、いったい何を指しているのだろうか?… 連載 超訳プロレゴメナ 155 プロローグ編23
第4節の後半から第2節の後半に移動した箇所の冒頭に「簡単で取るに足らないと観える観察を無視した」と書かれているが、その観察とは、いったい何を指しているのだろうか? ここを再度注意深く読んでみることにする。
ヒュームは、人間の理解力の大きな財産である純粋なア・プリオリ知識の領域全体に関心を向けるのことが、哲学者にふさわしい仕事と感じ取っていた。だが彼は純粋数学を純粋認識の領域から軽率にも切り取ってしまった。純粋数学の性質は、形而上学の純粋な認識とは異なるものとして、矛盾則のみに依存していると彼は考えていたからだ。矛盾則が純粋数学のいわゆる憲法だと観ていたのだろう。
哲学者にふさわしい仕事として、「純粋なア・プリオリ知識の領域全体に関心を向けること」は、ヒュームも十分に承知はしていた。しかし、矛盾則が純粋数学の基本の憲法のようなものと観てしまったために、純粋数学を形而上学の純粋な認識とは別個のもの観てしまったということなのだろう。
カントの観点から観たとき、純粋数学の思考方法は形而上学の思考法と、まったく同じものだったということなのだろう。ぼく自身は、これをカントの先見性ともみなしている。現代数学の、集合論や解析学の論理観を観れば、形而上学と同等の思考を各所に発見することに驚かされることもある。さらに、プログラミングの構築においても、同等の考え方があることに気づかされることが、多々あるのが現実だ。
さらにここで注意しなければならないのは、純粋数学のア・プリオリな可能性を総合と区別しなければならないということだ。公理は、ア・プリオリなものとして捉えるものとしても、そこから拡張されていくものは、総合の結果であってア・プリオリではないことだ。これを忘れていたことから、概念を演繹することに思いたらなかったのは、当然だったと言えるだろう。
そして彼は、ぼくがここで行ったようには、一般的な形で判断を分類しなかった。つまり純粋数学には分析的な命題だけが含まれているが、形而上学には総合的なア・プリオリな判断が含まれていると結論したのだ。これは彼の大きな間違いだった。その結果は彼の構想全体に明らかに有害な影響を及ぼしてしまった。
この間違いがなければ、因果関係の形而上学的な概念をはるかに超えて総合的判断の起源に関する彼の問いを拡張し、純粋数学のア・プリオリな可能性までも総合的なものとして究明したに違いない。
ここまでを読んできて、内容としては、形而上学に踏み込み始めた第2節の後半に等しいものとすることも、可能性は見えてきた。しかし、この段階では、読者を惑わす可能性もあるようにも思える。
ぼく自身が、この箇所の内容を把握できるようになったのは、『プロレゴメナ』を、何度も読み返した後だった。
カントも、それを考慮したのではないか。
読書会では内容よりも、そのあたりの事情に踏み込んだものになるのではないだろうか?
