この間違いがなければ、因果関係の形而上学的な概念をはるかに超えて総合的判断の起源に関する彼の問いを拡張し、純粋数学のア・プリオリな可能性までも総合的なものとして究明したに違いない… 連載 超訳プロレゴメナ 154 本編22
第2節(承前)
★超訳者付記:
以下はアカデミック版では第四節の後半に置かれている。しかしファイインゲル(Vaihinger)の指摘で、本来はここにあるべきもとされており、邦訳はほとんどそれに従っている。それに基づいて超訳もそれと同様にした。
この簡単で取るに足らないと観える観察を無視したことが、哲学にはかり知れない不利益を生ませたことを、ぼくは指摘せずにはいられない。
ヒュームは、人間の理解力の大きな財産である純粋なア・プリオリ知識の領域全体に関心を向けることが、哲学者にふさわしい仕事と感じ取っていた。だが彼は純粋数学を純粋認識の領域から軽率にも切り取ってしまった。純粋数学の性質は、形而上学の純粋な認識とは異なるものとして、矛盾則のみに依存していると彼は考えていたからだ。矛盾則が純粋数学のいわゆる憲法だと観ていたのだろう。
そして彼は、ぼくがここで行ったようには、一般的な形で判断を分類しなかった。つまり純粋数学には分析的な命題だけが含まれているが、形而上学には総合的なア・プリオリな判断が含まれていると結論したのだ。これは彼の大きな間違いだった。その結果は彼の構想全体に明らかに有害な影響を及ぼしてしまった。
この間違いがなければ、因果関係の形而上学的な概念をはるかに超えて総合的判断の起源に関する彼の問いを拡張し、純粋数学のア・プリオリな可能性までも総合的なものとして究明したに違いない。
そうであったならば、数学を形而上学と同じように、総合的認識とすることも可能だっただろう。数学の公理さえ経験だけから生まれたものでないとして、総合的な観点を見出したに違いない。だが彼の洞察力はあまりにも鋭敏すぎてそれができなかった。
形而上学が意図するものを、数学を対象に総合的観点で扱うべきものだった。これにヒュームが気づいてさえすれば、この鋭敏な哲学者は、いまぼくたちが追及している考察と似たものを必要とするに至っただろう。そこには彼の比類のないエレガントな文章によって、計り知れない成果が観られただろう。
