今回から第2節の後半を対象とすることになる。しかし、ここを第2節の後半と見ていいのか、躊躇もしている… 第4節の後半の移動したのは、製本ミスではなくカントの意志だったのではないのかと… 連載 超訳プロレゴメナ 153 プロローグ編22
今回から第2節の後半を対象とすることになる。しかし、ここを第2節の後半と見ていいのか、躊躇もしている。なぜなら、アカデミック版や、哲学文庫では、この個所は第4節の後半に掲載されているからだ。しかし、それ以外の流布本では、第2節の後半に移動した形で提供されているのだ。また、岩波文庫と中公クラシックスでも流布本のほうに従っているのが実情となっている。
ファイインゲルという人物が、「本来は第2節の後半にあったものが、製本の際のミスで第4節に移動してしてしまった」、と指摘していたことに基づいている。だが、カントは製本された『プロレゴメナ』に目を通さなかったなかったのだろうか? それはあり得ないことだと、ぼくは考える。なに事も細心の注意を払うカントにそれはあり得ないと思われるからだ。
そしてぼくは、さらに思う。第4節の後半の移動したのは、製本ミスではなくカントの意志だったのではないのかと…
形而上学の本質的な主題を語った重要な箇所ではあるが、第2節で取り上げるには、早すぎたと、そうした感慨をカントは抱いたのでないか?
第三節では、「判断を分析的と総合的とに区分する」指摘を行い、第四節では、「形而上学の可能性」を語っている。これを踏まえることが「形而上学の本質的な主題」を捉えやすくなるのでないか、とカントは考えたのだと、ぼくはそうとりたい。
したがって、ここを流布本に合わせたのは、たんに現行の慣習に従ったものに過ぎない。
参考した下記の英文版では、この箇所は哲学文庫に従っていた。
英文プロレゴメナ
この順序については考えるほど深刻なものと捉える必要もないのかもれない。なぜならその書き出しを読めば、形而上学の根本に迫る前に、哲学一般の問題を指摘しているからだ。
この簡単で取るに足らないと観える観察を無視したことが、哲学にはかり知れない不利益を生ませたことを、ぼくは指摘せずにはいられない。
だがカントの真意、それを、ぼくは思い浮かべないで、いることができない…
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