初読者にとって『純粋理性批判』は、たしかにかなりの覚悟を持って… それはカントにとって一歩も譲れないもの… 連載 超訳プロレゴメナ 89 読書会編62
超訳プロレゴメナ読書会 第五回から
前島幸太郎の感想
今回で、カント哲学の真髄としての形而上学の容貌が観えた感がしています。それは、参加者の感想の中にも種々の形をとって観えています。
それはプロレゴメナを読み始めた人たちにも、大きな自信を与えて、今後も読み続け続ける安心感も生まれたと、ぼくは確信しています。
概念の演繹や、カテゴリー表といった、形而上学での重要な要素が観えているっも今回の特徴と言って良いでしょう。
しかし繰り返しなることを避けて、ここではカントが『純粋理性批判』に対する世間の目を、どう捉えていたかを考えてみることにします。
今回の読み合わせには下記がありました。
たしかにこの作品は、一見は無味乾燥であり、明解ともいえない、さらにあらゆる一般的な概念に相反もしている、さらに長文である。だれもこんなものを苦労して読む気にはならないだろう。
だがぼくは、はっきりと言わせてもらう。人間にとって貴重で不可欠な認識の存在そのものが危機に瀕している現状で、哲学者たちから苦情を聞くことになったのは心外でもあった。彼らは、ぼくが書くものには、通俗、娯楽、快適が欠如していると言っている。たしかにその通りだろう。
だがぼくのここでの考察は、もっとも厳格な規則に従わなければ確立できないものであって、体系的な正確さを求められるものなのだ。
初読者にとって『純粋理性批判』は、たしかにかなりの覚悟を持って対処しなければならないものでしょう。それはカントにとって一歩も譲れないものでした。しかしカント哲学に馴染むことで、その覚悟も軽減されていくに違いありません。
しかし、そこに至るまではかなりの時間を要するのは確実なことです。その時間の軽減と言った意味でもプロレゴメナを読むことが、ぼくたちにとっては必然だと言えるのだと、ぼくは考えます。
今後も飽くことなく、この険しい途を昇って行きたいと強く思います。
