新しい科学の真髄を極めようとした、カントの心構えを観ることもできる… 超訳プロレゴメナ 88 読書会編61
超訳プロレゴメナ読書会 第五回から
牧野照邦の感想
いままでのぼくがプロレゴメナに抱いていたものは、下記の二点ではなかっただろうか?
・『純粋理性批判』の概要をコンパクトに示した。
・教育的な観点からの叙述を付加した。
カントにとって教育とは、本来の道徳とは何か、を説くことでもあった、だがプロレゴメナでは、そこまでは踏み入ることなく、道徳形而上学として、別の観点から論じられている。
またプロレゴメナの序説は、以上の概要を示したものと捉えてもいた。
しかし読書会で、読み合わせやディスカションをするなかで、さらに奥深いカントの主張が観えてきた。その感慨が今は強い。
それは、いままでは読み過ごしていた下記からも明らかだった。
時間を経て、通俗的な展開も可能になって、付加されてくる可能性もあり得るが、通俗から始まることは、どこの世界にもありえないのだ。しかし考察が広い範囲を対象にしているために、部分的には主要点が拡散されて見渡せないことも事実である。
この点に関する苦情は正当なものとして、ぼくは必ず受け取っていくだろう。このプロレゴメナでは、それを削除していくつもりでいる。
通俗的問言葉に引かれて後半を読み過ごしがちな文章だが、『純粋理性批判』の初読者に対する配慮が観える。つまり、初読者の段階では深入りする必要がない個所が『純粋理性批判』には、かなりあると言うことだろう。
その個所を、プロレゴメナでは除去していくと言っている訳だ。
これこそが、プロレゴメナが「カント哲学入門」である証と言っていい。
荒川先生は、さらに「カント入門」だとも言っていた。
それは新しい科学の真髄を極めようとした、カントの心構えを観ることもできるからだろう。
今回の読み合わせの対象になった箇所にもそれが観えていた。
使い古された考察が、それまでの関連から切り離されて、自分の思うように創り変え新しいタイトルで体系にまとめられてきたことを、ぼくたちは長く観てきて慣習ともなったのを知っている。
だからほとんどの読者が、あの『批判』にもそれ以上のことは何も期待しないだろう。だがこのプロレゴメナは、『批判』がまったく新しい科学であり、これまでにだれも考えもしなかったものであることを明らかにする。
ここにカントの形而上学、さらには哲学の新しい構築が観えているではないか。
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