人間の理念が、自然での体験で、自然科学は確立していく方向が示されている… しかしそれは、経験さえすれば確立できるってものではないことに注意しなければならない… 連載 超訳プロレゴメナ 283 プロローグ編 46
14節では自然科学を成立させるための自然そのものを対象にしたカントの主張が語られたともいえるだろう。
だから、そこでは自然が表わす現象を、経験を踏まえたものではなく、ただ事象として現れるものと観ているとの印象も強かった。
それは14節の下記が象徴していると思えてならない。
物そのものがア・プリオリに知られることはありえない。
さらに物自体の認識も、ア・ポステリオリに認識することも不可能だ。
第277回 本編46
そのためか、自然現象への言及も、いっさいなかった。
だからどちらかと言えば、自然という存在の理念を追求したものと言っていいだろう。
つまりカントにとっては、自然も、そこから確立する自然科学も、人間の理念があってこそ意味を持つ存在だったのではないだろうか?
その意味では、プラトンの『国家』を擁護としてカントが書いた、理念と政体の関りも重要な意味を持つの違いない。だからこそ、このカントの言及が、読書会の中で取り上げられたのは、意味を持つことだった…
読書会参加者のなかに、最初は余計な周り道のように捉えた者もいたかもしれない。しかし、最終的には理想的な政体が、確立できるの人間の理念が、理想に昇華したときということを、疑う者はいなかったに違いない。
これから先の15節や16節も同じ話が続いていくが、それが徐々に、自然と経験の結びつきつながっていくことも明らかになる。
その中には、完全に純粋とは言えない、経験的な源から得られたものいくつか含まれている。たとえば、運動、(物質の経験的概念が基礎を置いた)不可入性、慣性などであって、そうしたものが一般的な自然科学を、純粋な自然科学と呼ばせない要因となっている。さらにそれは外部の感覚の対象についてのみに関係しているものであって、厳密な意味での普遍的な自然科学の例を示しているわけでもない。
なぜなら自然科学は、外部の対象を対象とするかどうかは関係なく、厳密に自然一般を表現するものでなければならないからだ。
ここでは人間の理念が、自然での体験で、自然科学は確立していく方向が示されている。しかしそれは、経験さえすれば確立できるってものではないことに注意しなければならないだろう。
