物事を直観だけでア・プリオリに取得できるかは、まだ今は疑わしいとしか言えない。ぼくたち自体がまわりの物事のすべてを完璧に取得できてると、じっさいに考えることがあるだろうか。誇大妄想狂でなければ、それはあり得ないことではないか… 連載 超訳プロレゴメナ 205 プロローグ編30
今回は、第10節が対象になる。ここからア・プリオリの意義というものが本格的語られることになる。つまり、直観だけで物事をア・プリオリに取得できることを裏づける議論が展開していくと言っていい。
だがそこに入る前に書いておかなければならないことがある。
それは山際このみが、第17回の読書会のまとめに書いた懸念についてだ。
いまさら書くことでもないが、このプロレゴメナの読書会は、城北大学の荒川ゼミの履修生が中心になって開催されたものだった。しかしその履修生たちの大半は、来年(2019年)の三月に卒業し、学校との縁が切れてしまう。
そうなると、プロレゴメナ読書会の存続が難しくなるのではないか、それが、山際このみの懸念だった。社会人になると、自由に使える時間が極端の限定されてしまうのは明らか事だからだ。たとえ関心は尽きないにしても、読書会に参加する時間を確保するのはかなり難しくなるだろう。
しかしこの懸念は、今回の第18回の読書会のなかで解決することになる。それは読書会のディスッションの中で明らかになる。
予告はここまでにして、第10節の内容に関する解説を以下に書いていく。
10節は下記のように始まる。
この結果から感覚から生まれる直観だけで、ぼくたちは物事をア・プリオリに取得できることになる。
しかし、物事を直観だけでア・プリオリに取得できるかは、まだ今は疑わしいとしか言えない。ぼくたち自体がまわりの物事のすべてを完璧に取得できてると、じっさいに考えることがあるだろうか。誇大妄想狂でなければ、それはあり得ないことではないか。
だが、ここでは第9節に「ある方法」という言葉があり、それがディスカションで話題になっていたことを思い出してもらいたい。その「ある方法」の種明かしは、第10節でも明確には書かれていない。
だが先の引用個所だが、「取得できることになる」であって、「取得できる」ではないことに注目してほしい。じっさいには直観では物事そのものを取得することできない。そこで先の引用の後には、下記が示されている。
今はまだ認識できるには客観覚的直観の一つの形、現象にすぎないが、ぼくたちはそこから対象となるものを、それ自体ではなく、ぼくたちの感覚に写された姿として捉えることができていることを、知ることができる。
ここに与えられたものが、ア・プリオリな総合な問として可能なものとして認められるものであれば、あるいはそれらに実際に出会う場合にその可能性が事前に理解され決ものであるのなら、それらは必然的なものとして扱うことができる。
これは「ある方法」を少しだけ匂わせたような文書だ。だが、カントが思わせぶりなことをしている、とは取ってほしくない。まだ、それを示すことが可能な前提を示すところまでに至っていないから、これがとうぜんの記述と観てほしい。
以上から生まれた疑問は、ディスカションで大いに語ってもらうこと願っている。その期待を込めて今回のプロローグを終わりにしたい。
