ここに到達して解ったことは、概念の基礎となっているものが、たんなる直観であること、それを再度考えなければならないことだ… 物体とその変化(運動)の経験的直観から、経験的なもの、あるいは感覚に属するもののすべてを取り去っても、残るもがあるからだ… 連載 超訳プロレゴメナ 206 本編35
第10節
この結果から感覚から生まれる直観だけで、ぼくたちは物事をア・プリオリに取得できることになる。
今はまだ認識できるには客観覚的直観の一つの形、現象にすぎないが、ぼくたちはそこから対象となるものを、それ自体ではなく、ぼくたちの感覚に写された姿として捉えることができていることを、知ることができる。
ここに与えられたものが、ア・プリオリな総合な問として可能なものとして認められるものであれば、あるいはそれらに実際に出会う場合にその可能性が事前に理解され決ものであるのなら、それらは必然的なものとして扱うことができる。
こうして純粋数学がそのすべての認識と判断の基礎に据える直観は、空間と時間で与えられることになる。つまり空間と時間は、明証的であると同時に必然なものとして登場している。なぜなら数学はまずそのすべての概念を直観で持たなければならず、純粋数学は純粋な直観でそれらを構築しなければならないからだ。
これ以外の方法では、一歩も先に進むことさえ不可能だと断言する。なぜなら数学の進歩は概念の解剖によってなされるが、それは分析的にではなく、総合的に進歩するものだからである。
純粋な直観が数学に不足していたなら、ア・プリオリに総合的な判断を求めることになるだろう。それでは数学の問題解決に至らないと思われる。さらに幾何学では空間の純粋な直観が基礎となっている。数学のあらゆる計算は、時間単位を基準した連続量で数の概念を描くこと可能している。そして純粋力学が、時間を表現しないで運動の概念を導くこともできない。こうして純粋な直観の存在が多くの概念の基礎であることを知ることになるわけだ。
ここに到達して解ったことは、概念の基礎となっているものが、たんなる直観であること、それを再度考えなければならないことだ。物体とその変化(運動)の経験的直観から、経験的なもの、あるいは感覚に属するもののすべてを取り去っても、残るもがあるからだ。依然として残るもの、それは空間と時間だ。だから空間と時間は経験に先立って存在しなければしなければならいものなのだ。ぼくたちは空間と時間をア・プリオリな純粋な直観としてその存在を認識にするに至ったと言えないだろうか。
それらがア・プリオリな純粋な直観であることから、ここに明確になったことがある。そのすべてがある種の直観であり、種々のオブジェクトの認識に先立っものでなければならないことが疑えなくなっている。ぼくたちにとってそれは感性に対する現象に過ぎないかもしれないが、ア・プリオリの認識されるものであることは確信になったと言えるだろう。
