ある方法だけが、ぼくの直観が対象の現実性を予測可能な先験的な認識であるといえる… …種証しはしてはいません。なぜなら、種証しそのものを納得できるのは、認識という行為、そして理解力の限界を、読者が自分のものにした後でなければ… 連載 超訳プロレゴメナ 207 読書会編142
第18回目の読書会が、2018年12月8日(土)に文京区の公民館で開催されました。
今回の対象は、第10節です。
第9節目まででは、人間の認識の限界を問われているような、文章が続いていました。しかしカントは、これは、乗り越えることが可能なものとみているようにも伺がえます。それは、第9節にあった。下記から予測できます。
ある方法だけが、ぼくの直観が対象の現実性を予測可能な先験的な認識であるといえる。
けれども今回の第10節でもその種証しはしてはいません。なぜなら、種証しそのものを納得できるのは、認識という行為、そして理解力の限界を、読者が自分のものにした後でなければならないと、それがカントの確信だったからでしょう。
これについては、2017年から荒川ゼミを履修している人たちは、既得済みになっているものですが、それをこの読書会の中で言ってしまうわけにはいかないとも思っているようです。それは、本格的種証しがされたときの感激があまりも素晴らしいからです。
ディスカションの中でも、それを偲ばせるような発言も続いてました。
その意味でも今回は、知識の取得以外の何かを知る、愉しい読書会になったのではないでしょうか。
栗林雄太:
今回でも、「ある方法」についてはなにも触れていませんね、でも第13節まで行けは、必ずそれが明かされることが、確信しています。
桐川夢見:
第13節なんですか? ずいぶん先ですね。独力で15節まで読んではみましたが、読むだけでは分からないって感じです。自分の言葉にならなければ、分かったって言えないんでしょうね。
でもね、13節あたりに、コペルニクス的展開が書かれてるような気がしてならなかったんですけど…
須田隆雄:
それが、正解かもしれませんね。でも、カントって正解を語りだすまでの前置きが、長すぎるって感じますね! なにを勿体ぶってんだよ、そんな気にも以前はなったこともありました。
前島幸太郎:
『純粋理性批判』では、「フェノメノンとヌーメノン」ってところでそれが書かれてますが、これも結論に到達するまでは、けっこう長い文章を読んでいかなければなりません。それが、カントの希望、読者がここでの考え方を自分の言葉に昇華していくとことを、期待していたのだと、今では思っています。
