最初に命題として、7+5=12を取りあげる。12という概念は、けっして7と5 の組み合わせだけで考えられるものではない… 連載 超訳プロレゴメナ 149 本編21
第2節(承前)
まず注意しなければならないことがある。
それは正しい数学的判断のすべてがア・プリオリによる判断で、経験からは得られないということだ。数学的判断は必然性をもっているが、経験からは得られない。
ぼくのこの主張を認めたくない人もいるだろう。そこでぼくは、今後は純粋な数学に限定して話を進めていくことにする。
その概念そのものが、経験的な認識ではなく純粋なア・プリオリな認識を含んでいることを意味している。
最初に命題として、7+5=12を取りあげる。これは単なる分析的判断であり矛盾則による7と5の和の概念に基づくと考えるかもしれない。だが考えてみれば7+5には二個の数をある一個の数に合致させるという意味以外な何も持っていないことがわかる。12という概念は、けっして7と5 の組み合わせだけで考えられるものではない。だから考えられる合計を可能な限り分析しても、その概念の中に12が見つかることはない。
ぼくたちはこれらの概念を、その内部でなく外部で考えなければならない。具体的なイメージ (セグナーが『算術』で述べているように) 、つまり 5本の指、または5つの点といったものに助けを借りて、その5つの単位を連続的に7に追加しなければならない。そういった具体的なイメージの助けをかりて、ぼくたちの概念は、7+5=12に拡張されたものとなるのだ。
こうして得られたものは、7+5のなかだけで考えられたのではなく、新しい概念の助けによったものだった。したがって、算術的な判断は総合的なものであり、数値が大きくなるほど、それがいっそう明らかになることが解かるだろう。
ぼくたちの概念をどんなにひねくり回しても不可能だったものが、直感で具体的なイメージを介した結果、対象の拡張を得たのだった。つまり直感を採用しないかぎり概念の把握するのは不可能といえるのだ。
また純粋な幾何学も同様に分析的とはいえない。直線が二点間の最短距離であるということは、総合的な命題だ。
なぜなら、ぼくたちが知っている直線の概念には量は含まれていなくて、質だけが含まれているものだ。だから短さという属性も、まったく新たに追加されものであり、概念のいかなる分析によっても取得することはできないものである。ここでも直観がぼくたち助けてくれた。
つまり直観を介することだけが、総合を可能にするわけだ。
※英文版では日本で直観と言い表してきた[Anschauung]を、[visualization]や、[visual form]としている。視覚化、視覚的な形式と訳すことできて、この方が解りやすくに感じた。しかし超訳では、既訳の他の文献と比較する際のことを考えて従来から用いられている「直観」を採用した。公表の際には再考する可能性があると考えている。
幾何学者が想定しているほかの原理は、実際に分析的なもので、矛盾則に依存している。しかしそれらは、同一の命題として連結されたものが機能しているだけであり、原理としては機能はしていない。
たとえば、a=a、全体はそれ自体に等しい、または a+b>a、全体はその部分より大きい。 そして、これらさえも、単なる概念からは有効であると認識されているが、ある具体例を意識した直観で表現できるから、数学でのみ認められているのだ。
すでに通常でそんな不可解な判断の述語が、ぼくたちの概念に含まれているものだから、判断が分析的であると信じ込ませられてしまう。これは概念が曖昧であることから生まれる二重性なのだ。与えられた概念について考える場合に、あるものを付け加えなければならいと、ぼくたちは勘違いすることもある。そうではなく本質が漠然としていても、その中で何を考えるかということが重要なのだ。
その結果、述語は必然的にこれらの概念に属しているように見える。だがそれは直接ではなく、直観が加わって可能となるものだ。
