誤謬のなかにいるかぎり、人間がオブジェクトを実体として認識できると考えているかぎり、空間も存在いないと言っていい状態だ… 表象を介してオブジェクトを認識するスタイルこそが、空間を形成し、結局は世界を創造する… 表象がかたち創った、イメージの存在が、世界の始原となる… 連載 超訳プロレゴメナ 240 プロローグ編36
前々回にようやく第13節に入ったばかりなのに、前回は、『純粋理性批判』第二版序文を対象にした。これでは、ただでさえ長い第13節が終わるのは、いつのことになるのか、少し不安も感じている。
しかし、それは余計な懸念だろう。この『超訳プロレゴメナ』と名づけた連載は、先に進んで行ことよりも、今の段階で、より深く追求し、より深く知っていくことを、基本に置いたものだからだ。
またこれは、カミュを愛した荒川信介の「より多く生きる」ことの実践でもある。
今回は第13節の補足1が対象となるが、第二版序文の抜粋に眼を通していれば下記も、より深く知るものになると、確信すら、持っている。
もし感覚が対象の物に対しそれ自体として表現するのであれば、ぼくたちが受け取る事態は、まったく違ったものになっただろう。なぜなら、物自体には表象を外部に示すものを何も持っていないからだ。
そうなると、幾何学が空間の性質に関してア・プリオリな基礎として、そこから推論されるとしていたものが、本質的な空間の概念から導かれることが決してなくなってしまうだろう。そうして多くの人たちは、幾何学的な空間は単なる創り物に過ぎないと観るようになり、空間に客観的な妥当性があるとは認めはしなくなるに違いない。なぜならば、人間が物を知る以前から自然に持っていた物のイメージと、対象の物自体とが必然的に一致するのかが解らなくなってしまうからだ。
ある誤謬のなかにいるかぎり、人間がオブジェクトを実体として認識できているはずと考えているかぎり、空間も存在いないと言っていい状態だったのだ。物自体(実体)には表象を外部に示すものを何も持っていない、だから表象を介してオブジェクトを認識するスタイルこそが、空間を形成し、結局は世界を創造する、それはとうぜんのことでありながら、「コペルニクス的転回」に相当するものが登場するまでは、それを事実として承認されるまでにはなってはいなかった。
だが、表象がかたち創った、像(イメージ)の存在が、世界の始原となるわけだ。
今回の補足1では幾何学に視点を置いてはいるけれど、以上を解いたものが、先の引用に続いて語れている。
だがこの像(イメージ)が、この形式的直観こそが、ぼくたちの感性の本質的な性質なのだ。これを介してのみ対象の物がぼくたちに与えられるのだ。そして感性が表象できるのは物自体ではなく、その表象でだけである。
したがって、ぼくたちの感覚の世界でのすべての物は、幾何学の命題と最も厳密な方法で必然的に一致しなければならないことが、容易に理解され証明されることになる。なぜなら、幾何学が関わる外的な直観の形式(空間)によって、感性が対象を単なる現象として可能にするからなのだ。
ここまでは、補足1の前半にすぎない。はたして読書会で後半まで進むことができるのかも今は疑わしい。
後半にたいするプロローグは、読書会の状況で書き添える予定としょう。
