空間と時間の概念の超越論的演繹は, 純粋な数学の可能性を持っている。しかしその過程での演繹に至った推論がなければ、真実として認めてもその存在が理解できるわけではない… 連載 超訳プロレゴメナ 217 本編37
第12節
説明と確認のために何かを追加するには、幾何学で普通に使われている手順を見るだけでいい。与えられた二つの図形が完全に合同であることの証明 (一方を他方の多くの点に置くことができる場合) は、最終的にはそれらが完全に重なることが結論となる。
これは明らかに、直観が直接に得た総合的命題だ。当然のことだがこの直観は純粋にア・プリオリに与えられたものでなければならない。そうでなければこの問いを、暗黙的な確実なものと観ることはできなくて、経験的な確実性だけを持つものとなるだろう。この場合は、常にそうなっていると解っている時だけしか、ぼくたちの感覚が届く範囲だけでしか有効としか言えない。
空間 (それ自体が、別の空間と限界を持たないもの)が、三つの次元を持ち、それ以上の次元を持つことはできないという事実は、直角に交わる線は3本までしかないという命題に基づいている。この命題は概念から示すことは、けっしてできない。つまりこの命題は、直観に直接に依存したものであり、実際に暗黙的な事実として確実だから、純粋なア・プリオリな直観に基づいている。
ここでしばらく無限というものを考えてみる。無限とは、ぼくたちには最初から認識することが不可能なものだ。だが無限という言葉は世間ではよく使われる言葉でもある。一本の線が無限に引かれる、あるいは運動での変化が無限に続けられる、というように。この表現に潜む考えは、直観にのみ結びつくことが可能な空間と時間の表現を前提としているものなのだ。つまり、それ自体を制限するものが明示されない現実を顧みれば、概念からは決して推測できないものだからだ。だから数学の基礎にあるのは、実際には純粋な直観であって, それを総合的で暗黙的な命題として、ぼくたちが持つことを可能にすることになる。
これにより 空間と時間の概念の超越論的演繹は, 純粋な数学の可能性を持つことができる。しかしその過程での演繹に至った推論がなければ、真実として認めてもその存在が理解できるわけではない。ぼくたちの感覚(空間における外部の感覚、時間における内部の感覚)に与えられるものはすべて、それ自体ではなく、ぼくたちに見えるもの(現象)を直観が捉えた結果なのだ。
