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人間が対象を現象として捉え、それを確実なものにするには、判断が必要ってこと… また、判断がなければ、考えたこともならないって、言っていい… 連載 超訳プロレゴメナ 335 読書会編 225

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第35回読書会(つづき)
 
須田隆雄:
 考えるってこと、それは結論を求めることなんでしょう。たとえば、今日は疲れたから、早く休もうって思うのは結論がありますよね。でも、
 ああ、疲れた…
って思うだけで終わるなら、考えたことにはなりませんね。
 
前島幸太郎:
 それですよ! それが、22節の主張なんですよ!
 
曽根康夫:
 そうですね、考えるということは、判断すること… って書かれていますからね!
 
池田幸男:
 それは、必然とか偶然には関係なく、人間の意識に生まれる表象にたいして、どう行動するかを問うものなんですね!
 
山際このみ:
 言いたいことは、だいたい解ってきたけど、みんなの考え方を、再吟味する意味で冒頭を、しばらく読んでいこうよ! どこを中心に言っているかが、不明なら、それは、判断の対象には、ならないんじゃないのかな?
 
桐川夢見:
 須田さんが、疑問を挙げたときから、わたし、冒頭に眼を通していたんだけど、妥当な判断に到達することこそが、知覚判断から、経験判断への道筋じゃないかって、思えるようなっていた…
 
栗林雄太:
 それは、ぼくも同じです。山際さんがいう再吟味の意味で、ここをしばらく朗読してみます。

 したがって考えるということは、判断すること、あるいは表現を判断一般に参照することと同じものだということを受け入れられるだろう。だから判断は、表象がただ一つの主体における意識に言及し、それに統一されている場合には単に主観的であるか、または表象が意識一般に統一されている場合、つまり必然的に客観的であるかのどちらかになる。 すべての判断の論理的機能は、意識における表現を統合するさまざまな様式にすぎない。しかし、もしそれが概念として機能するのであれば、それは意識における必要な結合の概念であり、客観的に妥当な判断の原則となる。意識でのこの結合は、同一性による分析的なもの、またはさまざまな表現を互いに組み合わせたり追加したりする総合的なものなのだ。 経験にはこの結合が続が必要であり、意識における現象(知覚)の総合的な結合で構成される。

第332回 本編54

前島幸太郎:
 人間が対象を現象として捉え、それを確実なものにするには、判断が必要ってことなんですね。また、判断がなければ、考えたこともならないって、言っていいはずです。
 それは、第10節で説かれたことを、さらに追及した結果とも言っていいでしょう。だから桐川さんや、栗林君が、ディスカッションの最初に第10節のことを、思い出したのは、とうぜんのことだった、そう言っていいのです…

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