ふだんの思考のなかで、ア・プリオリという言葉が登場することはない… つまり、ア・プリオリとは、認識考察のための一道具にすぎないとも… 連載 超訳プロレゴメナ 197 プロローグ編29
今回は、第8節と第9節を対象に、考察を進める。二つとも前回と同様に短い節だが、やはり重要なことが説かれている。
それを一言でいえば、
ア・プリオリは、ほんとに必要なものなのか?
とでもなるだろうか。
ぼくたちが、思考するとき、周囲を観察するとき、ア・プリオリの存在を考えていることがあるだろうか?
この答えは、
そんなこと、一度も考えたことはない。
これに違いない。
ぼく自身も、ア・プリオリなる概念を知って50年以上を経過しているが、ふだんの思考のなかで、ア・プリオリという言葉が登場することはない。
登場するのは、認識を考察する過程で、実体、現象、仮象を考えているときだけだ。つまり、ア・プリオリとは、認識考察のための一道具にすぎないとも、捉えたっていいのだ。
しかし、この道具の役割は、かなり大きい。論理究明の過程では、多くの事象に、経験や体験を当てはめることはできない。本などから得た知識でも、さらに自身のものとして捉えなおそうとしたとく、拡張が必要となってくる。演繹と言ってもいいだろう。
この疑問について、第8節の下記は、答えている、そうだとぼくは思えてならない。
ここに新たな問が生まれている。(視覚的な形で)直観が経験に先立つもの観ることが可能なのか。つまり、「あるものをア・プリオリに直観することは可能なのか」という問いが生まれている。なぜなら、直観は対象とするものが以前も現在も存在していなくても、直観が生まれなければならないからだ。だれがこれをあり得るとすることができるだろうか。
もっとも、これを答えと思い始めたのは、プロレゴメナの初読の時ではなかったが…
さらに第9節には、ア・プリオリな直観の存在の必要性が説かれている。
だが、第9節の冒頭は、ア・プリオリな直観の存在に関する否定的な言葉も観える。
ぼくたちの直観が、もしも物事をそれ自体としてあるがままに表現するようなものならば、ア・プリオリな直観など存在しないだろう。そして直観は経験的なものだけを言うことになるはずだ。
この表現、カントらしい。ア・プリオリな直観の否定に似た言葉を吐きながらも、じっさいは、そうではないことを予測させるものになっている。
この点については、読書会のディスカションでも問われることになるに違いない。
