経験とは具体例で示すものでなく、だれもが普段の生活の中で疑問を感じることなく対処できているものであれば、経験判断の対象となる可能性を持っていると考えるべきなのではないか?… 連載 超訳プロレゴメナ 324 プロローグ編 54
第20節を対象にした読書会(第33回)では、「経験とは何なのか」、それがディスカッションされたと言っていいだろう…
カントの定義に従えば、人間のすべての経験は、感性が捉えたものから始まることになる。しかしそれが、だれにも納得できる普遍で妥当なものになるためには、理解力の篩にかける必要がある。
ただ、観たものや聞いたものは、一時の印象に残るかもしれないが、理解力の篩にかけて必要なものを抽出していく過程を経なければならない。その結果として残ったものが、真の経験として確立し、普遍的で妥当なものとして残ることになる。これが経験判断の結果として、だれもが妥当な経験を得ていく過程と表現できるだろう。
しかし、篩にかけた結果として何も残らないという事態もあると考えなければならない。つまり理解力の篩の目は、かなり細かいものであり、ほんとうに妥当なものは、かなり少ないものだと観なければならない。
20節では、「太陽の熱が石を温める」という例が挙げられたが、この程度のものなのか、そう感じた読者も多いはずだ! これは、だれもが納得できる具体例を示すことが困難だという側面を顕したものと捉えるべきことなのかもしれない…
だから、経験とは具体例で示すものでなく、だれもが普段の生活の中で疑問を感じることなく対処できているものであれば、経験判断の対象となる可能性を持っていると考えるべきなのではないか?
しかし、以上の表現もかなり漠然としたものだ!
それでは漠然とはならない、何かいい方法はないものなのだろうか? カントはそれをかってアリストテレスが試みたカテゴリーの中で発見したと言っていいだろう… しかしアリストテレスのカテゴリーは、項目の羅列に過ぎないともいえるものだった。項目間の関連も、ほとんど観えては来ない… だからカントはこれを再構成しすること考えたの違いない。
そして四つの項目として量、質、関係、様態が掲げれるが、これは下記のように過剰書きで書かれるものでなかった。
1. 量
2. 質
3. 関係
4. 様態
じっさいには下記のように書いてさらに、この四点の相互関係も示さなければないものだった。
1. 量
2. 質 3. 関係
4. 様態
相互関係についてはここで立ちることはしない。それはこれに対するカントの言及を吟味した後で、可能になることだからだ。それは、読書会のディスカッションのなかで順を追って明らかになっていくことを期待したい! 21節以降での検討も必要になる事であるから…
ここでは、相互関係も顕す意味で下図を掲げておくことにしておく。

