カントは、ここで相似形の例や、鏡の前に自分が立つ例を掲げていく。だが、そのどれをとっても、違いは判るが、それが何故なのかを、説明できないことを、嘆くような文章すら書いていく… 連載 超訳プロレゴメナ 222 プロローグ編33
いよいよ13節に入るがその冒頭は、かなり印象的な文章から始まる。
ここまでくると、先に読み進んでいくことを躊躇う人が出てきているかもしれない。なぜならここまでに書いてきたことは、多くの人たちのふだんの生活からかけ離れていると察すると想定できるからだ。ふだんの考えとは、空間と時間が物自体に付属するとするものだ。だがぼくはこれを否定する。だから空間と時間が物自体とは無関係だと言いだしたら、その人たちは自分たちの考えとの間に大きな乖離を見ることになるだろう。その人たちは、空間と時間が物自体に内在する考えから抜け出しことができずに、パラドックスを構築するかもしれない。そしてそれが失敗に終わると、しばらくは空間や時間について考えることさえ止めてしまうかもしれない。そしてあるとき、ふいに空間と時間を単なる感覚的直観に引き下ろすということも、十分な根拠があるかもしれないと疑い始める、そんなこともことも考えられる。その人が、考えることを諦めない人であるならば…
このなかでも下記は、日常的な考え方だけで、対処できないことが書かれるのではないかと想定される。
多くの人たちのふだんの生活からかけ離れていると察すると想定できる…
たしかにその通りだが、前節までを読んできた読者なら、すでにこの予測は、できていたと言っていいはずだ。
カントは、ここで相似形の例や、鏡の前に自分が立つ例を掲げていく。だが、そのどれをとっても、違いは判るが、それが何故なのかを、説明できないことを、嘆くような文章すら書いていく。
しかし、説明できなくても、嘆くこともなくなっている。
ここでの対象としての表現は、考えて理解するようなものでない。そうではなくて感覚(感性的な直観)が捉えた現象である。純粋な知覚(いわゆる理解力と言われるもの)が認識するものを表現したものではないと、知らねばならない。そしてそれ自体は、ぼくたちが知らないあるものであって、ぼくたちの感性との関係で成りたった外観をもつ直観のある形式なのだ。
ここでは、対象のオブジェクトそのものではなく、感性との関係で成りたつもの、つまり表象といえる現象だったことが、明らかにされている。
オブジェクトそのものの実体を知るのではなく、表象をそう捉えていくかが、重要なものだったのだ。
