ぼくたちは、空間と時間については、その存在を否定することはできないが、それがいったい何なのかは、説明することもできない。そして、空間も時間も、人間の存在のとってはなくてはならない。空間と時間という存在が、ぼくたちの認識を生み出すための不可欠な場であり次元と言えるだろう… 連載 超訳プロレゴメナ 221 読書会編 152
第20回 超訳プロレゴメナ読書会より
まとめ
コペルニクス的転回が、眼前に迫ってきてるって思えてならない読書会だった。
ぼくたちは、空間と時間については、その存在を否定することはできないが、それがいったい何なのかは、説明することもできない。そして、空間も時間も、人間の存在のとってはなくてはならない。空間と時間という存在が、ぼくたちの認識を生み出すための不可欠な場であり次元と言えるだろう、それは言葉にはならないにしても、だれもが納得していることではないだろうか。
だから、ディスカッションの中で、これに触れるには、かなり困難が伴う。だからぼくは、これについて「代用特性的なもの」って表現を使った。
これについては、牧野さんが的確な答えと指針を示してくれた。
またここから、「演繹に至る推論」が生まれるという指摘も一部にあった。
さらにここから、ヌーメノンやフェノメノンが登場する起因も挙げたかったかったが、それは時期尚早という指摘があった。当然だった。
しかし読書会のこれからの展開が、さらに興味深く有効な方向に向かうことは示唆されたいたことを、ぼくは確信している。
またこれは、ぼくだけでなく、この一年を通して参加してきた者にある共通した確信なのは疑いない。
また、今年の新年には、驚かされることがあった。
それは、荒川先生が『純粋理性批判』第二版の序言を超訳されたことだ。手がけたのは、昨年末の冬季休暇に入ったころからではないかと想像できる。
たしか17回目の読書会だったはずだが、この序言が話題になった。
それは、「コペルニクス的転回」に関連した話題だった。カント自身が、思考の視点を逆転させた考え方を、「コペルニクス的転回」として表現したのが、この第二版の序言だという話題だった。
そのとき、『純粋理性批判』そのものを読むのはまだ先にかもしれないが、この序言だけは読んでみたい、そんな意見も出ていた。
たぶん、荒川先生もこのディスカッションの記録を読んだに違いない。
プロレゴメナは、『純粋理性批判』の概要と言えるものだが、第二版の序言は、『純粋理性批判』の中心の課題、形而上学に挑む姿勢について書いたものって言っていい。そこから先生は、学生時代にやり残していたことに気づいたのだと、ぼくは思った。
なぜなら、その文体は。『超訳 プロレゴメナ』とは違って、あの先生の学生時代のノートの雰囲気を、そのまま引き継いでいるものだったからだ。
今後は、読書会の中でもこの序言に触れていくことを希望している。
(前島幸太郎 記)
付記:
上記で触れている、荒川先生の学生時代のノートについてはさらに編纂したものを、このnoteで、『超訳純粋理性批判』として2026年4月から連載している。しかし、今の進捗(一回分1000文字前後としたもの)では、第二版序言は9月以降になるだろう。
そこで、この内容をさらにアレンジしたものを、『コペルニクス的転回を対話する』というタイトルで別途noteにも書いておいた。今後の読書会でも、この記事に関連した話題が登場するに違いない。
