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初めて読む人には解りづらいものかもしれませんね?… ぼくは、最初から超訳で読みました。たしかに須田さんが言うように即座には判りませんでした。でも、この読書会で、ディスカッションを重ねていたことが、ここでの敷居を乗り越えやすいものにしているように思えます… 連載 超訳プロレゴメナ 326 読書会編 218

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 2019年8月10日(土)に第34回目の読書会を開催しました。Zoom利用の12回目の読書会です。
 
 対象となるのは、第21節です。
 
 ここでいよいよ、カテゴリー表が登場します。
 
 もっともいままでのディスカッションから、それが思考の道筋を示してくれるものらしいことは、漠然とですが、浮かんではいました。
 
 しかし、ここに示されたものを最初も観た時点では、期待したものとは、まったく違ったものと観た人のほうが大半だったのでは、ないでしょうか。
 
 いったい、どうやれば、これが活用できるのだろうか?
 
 この疑問は、とても自然なものです。カテゴリー表は、それを観ただけで問題が説けるよう、アンチョコではありません。
 じっさいにはカテゴリー表に書かれている意味を検討し、それをじぶん自身の思考のなかの各所に適用してみて考えていかなければならないのです。
 その意味では、22節以降の数節は、その検討のためにあると言ってもいいものです。
 どこに行っても、だれにたいしても、哲学(形而上学)は、自主的な思考の持ち主であること要求して止まないものなのです。
 
 
須田隆雄:
 ぼくが、カテゴリー表の意味と、各項目の相互性を考えることができるようになったのは、最近のことなんです。ゼミでここをやったのは一年以上もまえのことですが、そのときは判ったようで判らないって奇妙な気分でいました…
 また、あの頃は先生の超訳も完成してはいませんでした… でも今では、21節もすでに超訳されています。その冒頭はこんな具合に書かれてて、何に注目すればいいのか、即座に理解できるようになっているのでは、ないでしょうか?

 これから先に意義があることは、以下を明らかにすることだ。
 それは純粋理解の概念(理解を通して得られた概念)は、直観によって判断されたものが、結果として他のいくつかの契機と結びつくものとして明らかにすることなのだ。そこには概念が理解力を通した判断によって決定された一般的な直観の概念にすぎないということを、前もって知っていて可能になるものである。

第325回 本編53

 でもこれも、初めて読む人には解りづらいものかもしれませんね?

栗林雄太:
 ぼくは、最初から超訳で読みました。たしかに須田さんが言うように即座には判りませんでした。でも、この読書会で、ディスカッションを重ねていたことが、ここでの敷居を乗り越えやすいものにしているように思えます。
 
山際このみ:
 たしかにそうかもしれないね! わたしも、ディスカッションのなかで再度、カテゴリー表の重要さを考えていたから…

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