一定の状況下で経験がぼくに教えてくれることは、他の時点でも常にぼくのほかにも他のすべての人に教えてくれるものでなければならない… その有効性は、対象や特定の時点での状態に限定されるものではない… だから、そうした判断のすべてに対して客観的に妥当だと、ぼくは称する… 連載 超訳プロレゴメナ 310 本編51
第19節
いままでに書いてきたこと以下が言える。
客観的妥当性と(すべての人にとっての)必然的な普遍性は、同等の内容を持ちながら互いが補完し合っている。対象自体を知らないとしても、判断が普遍的で妥当であり必要と考えることができるならば、それは客観的な妥当性を持っていることになる。
この判断によって、ぼくたちは与えられた認識の普遍的かつ必然的な結びつきを通して、対象を(それ自体は未知のままであったとしても)認識することになる。
これが感覚のすべての対象に当てはまることになり、経験判断は、その客観的妥当性を対象の直接の認識(それは不可能である)からではなく、ただ経験的判断での普遍的妥当性の制約の中から受け取ることになる。すでに述べたように、それは決してそれは経験的、つまり感覚的な制約に基づくのではない。理解力(悟性)という純粋な概念に基づいている。
ぼくたちにとって物自体の客観性は未知のままだ。だが、理解力(悟性)という概念によって、普遍的に妥当であると決定されるならば、対象はこの関係によって決定され、その判断が客観的と見なされるのだ。
これについて一つの例で説明する。
以下のように言ったり考えたりするとき*は、 ぼくたちは主観的に正当な判断しか持っていない。
部屋は暖かい
砂糖は甘い
蓬(よもぎ)は苦い
しかし常にぼくがこう考えるとか、他の人のだれもが同じように考えているとは思ってはいるわけではない。ここで判断は、一つの主観に対する二つの感覚(一番目に限ると、[部屋]と[暖かい])の関係を表現しているだけであり、しかも現在のぼくの認識状態でのみ表現されているにすぎない。
したがって、これの判断は客観的に妥当すると言えるものではない。こうした判断を、ぼくは知覚判断と名づけたのだった。
しかし経験判断では事情が、まったくは異なっている。一定の状況下で経験がぼくに教えてくれることは、他の時点でも常にぼくのほかにも他のすべての人に教えてくれるものでなければならない。すなわちその有効性は、対象や特定の時点での状態に限定されるものではない。だから、そうした判断のすべてに対して客観的に妥当だと、ぼくは称することができるのだ。
たとえば、空気には弾力性があると、ぼくが言った時点では、この判断はまだ知覚判断に過ぎなのであって、自身における二つの感覚を相互に関係させているに過ぎない。しかし、これを経験判断と呼ばれることを、ぼくが望むときには、この関係が常に普遍的に妥当とされる制約の下で成立することを立証することを要求することになる。
こういうわけで、ぼくと他のすべての人が、同じ状況下で常に同じ認識を必然的に結びつけることを、ぼくは望んでいるのである。
*ここに掲げた例は、たとえ理解力の概念が追加されたとしても、経験判断になり得るような知覚判断を表していないことを、ぼくは認める。なぜなら、これらの例は単に感情に言及しているだけであり、それは単に主観的なものであって客観にはなり得ないものだと、誰もが知り得るものだからなのだ。
ぼくがここで示したかったのは、単に主観的に正当であるだけであり、普遍的妥当性、ひいては対象との関係の根拠を含まない判断の例だった。理解力の概念が追加されることによって経験の判断となりえる知覚の判断の例は、次節で示す予定でいる。
