ぼくたちとって体験が記憶に残り、それが今後も一つの生活の規範になるのであれば、個人的にすぎないものであっても、客観的な妥当性を持った経験と言えるのではないだろうか… 連載 超訳プロレゴメナ 309 プロローグ編 52
ぼくたちにとって経験とは、何なのか? ぼくたちの周りでは。たしかに何かが起こってはいる。それを捉えることを経験と言っていいのだろうか? しかし、そこに忘却も伴うとしたら、それまでも経験と言えるのだろうか。それが経験ではないとは、断定はできないが、ぼくたちにとっては、経験として存在する意義もないものではないか。
今朝は早くから日差しが眩しかった。雲が少ないからだろうか? そこから、一つの原因と結果の規則も考えることはできるだろう。しかし、それが前にも体験したことであれば、もうそうしたことを考えることも少ないだろう。気象官でもない限りは…
ぼくたちとって体験が記憶に残り、それが今後も一つの生活の規範になるのであれば、個人的にすぎないものであっても、客観的な妥当性を持った経験と言えるのではないだろうか…
カントは『プロゴメナ』の19節で、下記を顕した。
客観的妥当性と(すべての人にとっての)必然的な普遍性は、同等の内容を持ちながら互いが補完し合っている。対象自体を知らないとしても、判断が普遍的で妥当であり必要と考えることができるならば、それは客観的な妥当性を持っていることになる。
ここから先に進んで行き、経験判断とは何かが、語られることになる。18節で明らかになったのは、経験そのものは感性での知覚判断から始まるが、客観的な妥当性をもってだれもが納得できるもを、総称して経験判断と言えることが指し示された。
そして、今回対象なる19節では、そこに理解力で培われた概念に昇華させる重要さが説かれることになる。
形而上学にとっては、経験もたんなる履歴に止まるものであってはならい。多くの体験の中でも、概念として確立できるものだけが重要であり、それをカントは、経験判断と称したことになる。
また19節では、判断について具体的な事例が掲げれている。しかしそれをここで語ることは、まったく考えてはいない。
なぜならそれこそが、読書会のなかでのデイスカッションの題材とならなければならないものだからだ…
