ぼくは、社会一般の業務文書にも不満をもっている。結論が重要なのではない! 何が言いたいかが、もっとも重要なのだ! そのためにも読者には、回りくどく観える文章からも、真の意を酌みとることを、強く要求して止まない… そうでなければ、文化そのものが絶えていくことになるだろう… 連載 超訳プロレゴメナ 308 プロローグ編 51
前回、18節の概要を書きながらも、最後は下記で締めくくった。
18節については、まだ書かなければならないことが残っている。それは、時間をおいて新たに書いてみたいと、いまは思うだけに止まっている。
それはカント哲学の全体に関わる話なのだが、論旨の進め方が、けっして一本の筋道で表現されいないことにある。結論に到達するまで各所で立ち止まって考え込んでいるような文章も散見する。これは人は評して、カントは代表的な悪文製造者だと語ることもある。
しかし、多くに理解してもらうために文章そのものにについて腐心したのもカントなのだ。それがよく判るのは、カントが自分の作品をドイツ語で書いたことにある。ドイツ人のカントだから、それは当然と思われるかもしれないが、18世紀の哲学の状況を省みれば、当然とは言えないことだ。当時のヨーロッパでは、哲学の著述はラテン語で書くことが当然とされていた。
それをあえてカントが、自国語で書いたのは、そこには万人に自身の考え方を知ってもらいたいという願望があったからだと、ぼくにはそう思えてならない。
そしてさらには、カント自身が提起した問を明らかにするために、関連する要素をできる限り、書き残そうとしていたのだと、ぼくは確信している。
一見、回りくどい文章に観えるが、それがカントの心遣いと解釈して(繰り返しを伴って)読み進めていけば、必ず何が言いたのかも観えてくる。
18節でカントは言いたかったのは、経験判断が重要な判断だとということに違いない。なぜなら経験判断には、客観的な妥当性があり、理解力の手続き求めることで、認識の場で重要な位置を占めることになるからなのだ。
それを端的に顕しているのは、18節の最後の方の下記と言っていい。
だからある判断が、経験判断と言えるのは、だれが観てもそこに普遍的に妥当と言えるものがあることが必要なのだ。なぜなら、経験の判断の客観的妥当性は、その容認に必要な普遍性以外に得るのものは他にないからである。
しかし、ここに至るまで、経験的判断として知覚判断を取り上げて、経験判断も経験的判断の一つの概念かとも想像できる文書が続いている。経験判断と、経験的判断は一見では区別しにくい表現と言っていいだろう。ぼくなら、経験的判断のほうは「人間の判断のための体験手続き」とでも表現したいところだが、これもまた回りくどい文章ではある。しかし今後、ぼくが経験的判断と書いた時には、この意味を含ませているものと、捉えてもらえるなら、ぼくの意思が多くに理解できるのではないだろうか?…
上記に端的に顕している文章(センテンス)を掲げたが、その手前に、下記があることに注意しなければならない。
知覚判断は、理解するための純粋理解力概念を必要とせず、思考する主体での認識の論理的結合を必要とするだけだ。
それに対して経験的判断は、感覚的な直観の表象に加えて、理解のために生じた特定の概念を常に必要としている。ここでは概念が、経験判断に客観的に妥当していることが明らかにされている。
このセンテンスの並び方は読書会でも問題となった。結論から先に書くべきではないのかと… それは社会の業務文書から観れば当然なことでもあったからだろう。
しかし、読書会で判断されて言葉になったのは、下記だった。
結論ばかりを追っている姿勢では、経験判断を考慮するとき、その原因についても不明になりかねない。ぼくたちの経験が、ぼくたちの感性を基本とした知覚判断から始まることを、明確に捉えておくことが、経験判断に到達することも納得できる。
だからぼくは、社会一般の業務文書にも不満をもっている。結論が重要なのではない! 何が言いたいかが、もっとも重要なのだ!
そのためにも読者には、回りくどく観える文章からも、真の意を酌みとることを、強く要求して止まない。
そうでなければ、文化そのものが絶えていくことになるだろう…
カントが18節の最後に書いた下記からも、その意をぼくは読んでいる。
ぼくの判断と他の多くの人たちとの判断が一致しなければならない… 統一がない時代には、これは焼却場で使われる言葉でしかない。
