ぼくたちの概念が経験から導き出すことがあきらかに不合理なのだから、経験に基づいて分析的判断をすること自体が無駄なこと… ぼくたちが対象とするもの(オブジェクト)は拡張されたものだ。これは、ア・プリオリに確立された判断であって、経験的な判断ではない… 連載 超訳プロレゴメナ 144 本編20
第2節 形而上学的と呼ばれることが当然となる認識方法(承前)
c. 総合的な判断には、矛盾則とは異なる原則が必要だ
経験に基づくもので、ア・ポステリオリと呼ばれる事後的な総合的判断がある。
しかし、ア・プリオリに確実であることが証明され、純粋な理解と理性から生じる総合的判断もある。
その両者とも、確実に言えることがある。どちらも分析の原理、つまり矛盾則だけからは、それらが生まれる可能性はけっしてない。
どっちもまったく異なる原理を必要とするが、それにも関わらずどのような推論からでも、奇妙に観えるかもしれないが矛盾則に従わなければならない。しかもそこからすべてを導き出すこともできない。なぜなら矛盾則に反することは決して許されないからだ。
そこで、まず総合的判断の分類を行うことにする。
1.経験から得られる判断は常に総合的なものだ。
なぜなら、ぼくたちの概念が経験から導き出すことがあきらかに不合理なのだから、経験に基づいて分析的判断をすること自体が無駄なことだと知らねばならない。
ぼくたちが対象とするもの(オブジェクト)は拡張されたものだ。これは、ア・プリオリに確立された判断であって、経験的な判断ではない。
なぜなら、経験に訴えかける前に、ぼくたちはすでに概念の中にすべての判断条件を持っていて、そこから矛盾則にしたがい述語を導き出すだけで良くなっている。
同時に判断の必然性を認識することになるが、経験はこの必然性を、けっしてぼくたち教えはしない。
2.数学的判断はすべて総合的なものだ。
これは確実な事実なのだ。ところが残念なことだが。長い期間にわたって、この重要な事実か見逃されてきた。事実、これまで人間の理性を分析した人たちの観察から完全に見落とされている。それどころか、議論をするまでもなく重要なのに、彼らのすべてが推測に真逆に反対しているように観える。
その理由は、数学者の推論のすべてが矛盾則に従って行われるから(すべての確実性によって要求されて)、人々は基本原理も矛盾則から認識できると思い込んでいたからだ。
これは大きな間違いだった。というのは、総合命題は確かに矛盾則に従って理解できるが、それが導かれる別の総合命題を前提として推測される場合のみ可能でしかない。命題自体では決して理解できないのだ。
