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自然の線は物理的な点と線で構成されていて、自然界へ適用する可能性には問題はないかもしれない。なぜなら物体の真の空間は単純な部分の多くの集合として構成されているだろうと考えられるからだ。しかし実際は、単純もの(点と線)だけで成り立ってはいないのでないかと考え始めたのだった… 連載 超訳プロレゴメナ 245 本編41

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第13節 補足1(承前)

 古代から数学者は、同時に哲学者でもあった。その数学者たちは空間に関しては自分たちの幾何学的命題を正しいものとして疑うことはなかった。だが幾何学を自然に適用する過程では、疑いを持った時代もあった。これは哲学の歴史では注目に値する出来ごとだった。
 自然の線は物理的な点と線で構成されていて、自然界へ適用する可能性には問題はないかもしれない。なぜなら物体の真の空間は単純な部分の多くの集合として構成されているだろうと考えられるからだ。しかし実際は、単純もの(点と線)だけで成り立ってはいないのでないかと考え始めたのだった。彼らはまだ以下のことに気づいてはいなかった。思考の中の空間が物理的空間を拡張すること、つまり物質の拡張を可能にするということを、まだ認識していなかった。物質の拡張を可能にすることは、物自体に対する観点を変える必要があったのだった。
 この純粋な空間は決してそれ自体の性質ではなく、ぼくたちの感覚的な表現能力の一形態であるということ。 そして、空間内のすべての物体は単なる外観、つまり、物自体ではなく、ぼくたち自身の感覚的直観が表現したものなのだと考える必要があった。
 そしてここにこそ事実があった。拡張可能な真の幾何学の空間それをぼくたちにア・プリオリに発見する契機を与えることになった。ここで得られるすべての形式が空間の可能性の基礎となっている。そしてこれらは幾何学の命題に必然的に正確に一致していなければならない。幾何学者はそれを架空の概念からではなく、すべての外部現象の主観的な基礎、つまり感性そのものから引き出すことになる。
 この方法だけが、幾何学の命題について疑う余地のない客観的事実をもって、あいまいな形而上学からの非難を退散させることができる。これ以外の他の方法では、それは不可能なことだ。
 幾何学的な命題は、現有の形而上学からは信用されないかもしれない。その理由は、その人たちの形而上学が概念の根源をまでに遡って追跡していないからだ。

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