ここで理解力が活用されるってこと、その重要さを指摘している… ぼくは、ここにこそ経験の意義があるって思い続けている、何かを見て知ったつもりになっても、理解力が働いていなければ、観てはいないのだ… 観察できるってことは、理解力が働いている結果だ。見ているだけでは、経験にも相当しない… 連載 超訳プロレゴメナ 244 プロローグ編37
読書会のディカッションにとつぜんに荒川先生が発言して「カントの夢」に触れたのは、参加者たちのこれから先の大きな成長に気づいたからではないか? それを、先生が説明することもないだろうが、それはだれもが気づいていただろう…
第13節の補足1は幾何学に題材にとっているが、読書会の参加者の中に、それに拘るものは観えないようだった。そこにもこの読書会を始めた当初よりも大きな成長が観られる。
それは、人間の認識こそが、世界を造りだすという確信に至れば、取り上げる題材がどんなものであっても、一つの具象と捉えることが可能になっているからかもしれない。
その意味では、「コペルニクス的転回」に触れた、第二版序文をこの時期に荒川先生が超訳したことは、時期を得たものだった言っていいだろう。
第二版序文を何度も読んでいて観えてくるのは、経験の捉え方の変遷ではないのだろうか。
経験そのものが理解力を必要とした認識の一種であって、その規則は対象が与えられる前からア・プリオリに前提になっていなければならない。だから経験のすべての対象は必然的に一致するものとしてのア・プリオリな概念で表現される。これが、対象を直観に先立つものとしてきた従来の方法と大きく違っている。また対象に関しては、ここでの思考方法(対象は思考されなければならないものだから)が、思考様式の試金石を今後も提供していくことになるはずだ。その方法とは、ぼくたちがオブジェクトのついてア・プリオリに認識するものは、ぼくたち自身がオブジェクトに与えたものだけにする、そうした方法なのだ。
ここで理解力が活用されるってこと、その重要さを指摘している。かってからぼくは、ここにこそ経験の意義があるって思い続けている。何かを見て知ったつもりになっても、理解力が働いていなければ、観てはいないのだ。
つまり、観察できるってことは、理解力が働いている結果なのだ。見ているだけでは、経験にも相当しないのではないのか。
東洋と西洋とは、表現方法の主体が異なっているからなのだろうか。ぼくたちの、「見る」は、英語では"see"で、「観る」は"watch"になる。これなら違いは明確だが、日本語では聞いているだけでは誤解が生まれやすい。
今回のディスカッションでも、「想像」と「創造」の相違も字にしなければならなかった。
これは、メディアの変遷のなかでも問題となったことが多い。かってテレビが全盛を誇った時代があった。この一方通行のメディアでは多くの誤解が生まれた。本人は「機械」を想定して言ったものが、「機会」と取られ、誤解が生まれたことも多かった。
しかし、いまのネット社会では文字で表現されることが多くなっている。これは、ぼくたちが文字で意見を交換することを主体にしていけば、現況の問題も解消に向かうことを教えている。
しかしZoomのような媒体を使うときに、注意が必要になる。言葉だけで、誤解されたままで話が進行していく懸念さえある。だから、データー表示機能が大いに活用されなければならない。
第23回目の読書会の後半は。第13節 補足1の続きを対象とする。そこでは、数学と哲学の相似性について語られるが、ここでも言葉だけでなく、図形を描いたり観たりする作業が求められる。
しかし、それは具象的な図形で終わっていれば、ぼくたちには何も得るところはない。抽象化の作業の結果としての、純粋な空間の発見があった後に、初めてぼくたちの思考対象として空間が表れえてくることにある。
第13節 補足1の続きは下記から始まる。
古代から数学者は、同時に哲学者でもあった。その数学者たちは空間に関しては自分たちの幾何学的命題を正しいものとして疑うことはなかった。だが幾何学を自然に適用する過程では、疑いを持った時代もあった。これは哲学の歴史では注目に値する出来ごとだった。
この連載の編纂者が、後半をなぜここから始めたのか? その意義を多くに理解してもらうことは、大いに重要なことだ。
