総合の結果として、一つの科学確立への近接が可能になる。ただしこれは一度で終わるような作業ではない 超訳プロレゴメナ 104 プロローグ編 18
プロレゴメナの第1節は、下記の文章から始まる。
一つの認識を科学として定めることを望むときは、まずその認識が、他のものが表している認識とは異なる箇所、つまりその認識の特有な箇所を正確に決定することが必要だ。
そうでなければ、多くの科学の間で認識の混乱が生まれて、どの一つの科学も徹底的に扱うことは、できなくなってしまうだろう。
初めてここを読み、すべてに納得するのは難しいことかもしれない。しかし序説で、概要と語られた下記を憶えていれば、少しは納得できるのではないだろうか。
科学を構築していくには、下記の二つの試みを必要としている。
・多くの対象の個々について分析を行い、単独の要素となるものをできる限り集めていく。
・分析作業で集められた各要素のなかから接合可能なものを、取り出して総合していく。
この総合の結果として、一つの科学確立への近接が可能になる。ただしこれは一度で終わるような作業ではない。
カントが『純粋理性批判』の第一版を上梓するまで十年の沈黙を要したことを考えれば、かなり困難であり、無味乾燥な作業であることも考えておく必要があるとも言えるだろう。
問われる内容もかなり抽象的になったと観える。しかしここまでは、想像することで書かれている内容を追うことはできる。
しかし下記は、あまりにも唐突だと受け取られかねない。
どの科学でも次に掲げる三点でその特徴が示される。
対象の相違
認識の源泉
認識の種類
これが基本となって、科学の可能性と領域の考え方が決まる。
唐突と受け取られると懸念を挙げたのは、上記に関して具体的なことが一切書かれていないことにある。
それでも(第一章に入る前の)第五節までを読めば、感覚としては把握できるはずだが、具体的なことは、読者に思惟に任されていると考えなければならなくなっている。
これは哲学を学ぶための苦難にも観える、しかしじっさいには自分で考えて学ぶ者には、それが歓びに変わることが断言できるものなのだ。
