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プロレゴメナ(prolegomena)が序説という意味のドイツ語であることを思うと、全体が『純粋理性批判』の序説で… 超訳プロレゴメナ 103 読書会 71

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超訳プロレゴメナ読書会 第六回から

 前島幸太郎の感想

  プロレゴメナの序説は、形而上学の構成に関する基本が語られている。今回はそれを改めて考えさせられていた。
 プロレゴメナ(prolegomena)が序説という意味のドイツ語であることを思うと、全体が『純粋理性批判』の序説であり、ここで序説と称している箇所は、形而上学の緒言や案内と言っても構わないのだろう。

 しかし、ここからさらに先に進むべきなのか、それは読者の体質で判断するように、カントは任せていると観ることができる。

  ぼくがここに提示したプロレゴメナは、将来に現れるすべての形而上学のために世に投じたものだ。だが、これでもまだ曖昧で難解だと感じる人がいるかもしれない。そんな人にはこう考えればいい。すべての人が形而上学を学ぶ必要はないということを。

第93回 本編14

  形而上学を構成していくには、対象となるもののすべてに対して分析を施し、細かな諸部分の集合体をまず作らなければならない。そしてそれをさらに関連付けられるものを結び合わせながら総合を試みる必要がある。これはかなり神経を使う細かい作業を丹念に続けていくだけの根気も要求されるものだ。
 そのとき考え問わなければならないのは、その根気を形而上学のために自らが発揮すべきかだと思われる。
 科学のどの分野をとっても根気が不要なことは、けっしてあり得ない。だが、眼前に提示されたものが、自分にとっての科学として必要なものなかは考えなければならない。それは道徳における定言命法での選択に似たものではないか。
 自分の意志に逆らうもの、自分の自由を規制するもの、それは自らが選択すべき途ではない。そう考えるべきだと、断言したい。

  こうしたことを考えさせるプロレゴメナ全体は、万人を対象にしているが、さらにその先に万人が進んでいくことは、カントは望んでいなかった、そうとるべきだと思う。それが、上述のなかの下記が示しているのは明らかだろう。

   すべての人が形而上学を学ぶ必要はないということを。

  これに付随したことが下記にも表れている。

  人間の才能の形は一つだけではない。基本的で奥深い科学では、それが直観に近いものならきわめてよく進歩するが、まったく抽象的な概念による探究では成功しない。だから、抽象的な思考に興味を憶えれば形而上学を考察するのも良いが、そうでなければ他のことに自分の恵まれた才能を振り向けることが必要だ。多くの才能を生かすには、多くの対象が選択可能な社会を造らねばならない。学術会議を毛嫌いする無能で危険な為政者には多くを期待できないが…

第96回 本編15

 抽象的な思考に興味を憶えたぼくは、さらに形而上学の奥底をきわめて行くことになるには違いないが…

  次回の読書会では、第1節が対象となる、そこではまず概念を抽象化して分類したものが登場する。だが序説を繰り返し読んできたぼくたちには、それは当然の手引きでしかないのものなのだ。

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