部長と本部長を一度に呼んで、私は撃沈した
転職して数週間が経った頃のことです。
ある案件で、自分の中では筋の通った提案がまとまりました。早く通したい。そう思った私は、部長と本部長を一度に呼んで、その場で説明して決めてもらおうとしました。監査法人にいた頃の感覚で言えば、これが正解のはずでした。論点を整理して、相手を説得して、その場で決着させる。スピードこそが価値だと、体に染みついていたからです。
結果は、あえなく撃沈でした。
そもそも、社内で物事を上げるときには、ワードやパワーポイントで体裁を整えた資料を用意するという「お作法」があることを、私は知りませんでした。そして何より、部長に話を通し、その部長から本部長へ上げるという順序を、私はまるごと飛ばしていました。中身が良いか悪いか以前の問題だったのです。
このとき、ぼんやりと気づきました。監査法人で「優秀」とされていた自分の動き方が、ここではそのまま通じないらしい、と。
この記事は、監査法人から事業会社の経理や経営企画への転職を考えている会計士・USCPA・簿記1級の方に向けて書いています。結論から先に言ってしまうと、こうです。監査法人で鍛えた優秀さは、事業会社でも半分は効く。けれど残りの半分は、入れ替えないといけない。
「全部やり直しだ」と脅すつもりはありません。あなたがこれまで積み上げてきた力は、無駄になりません。ただ、何が効いて、何が積み替えになるのか。その地図を持って入るのと、持たずに入るのとでは、最初の半年がまるで違います。私はその地図を持たずに入って、冒頭のように転びました。
監査法人で「優秀」と呼ばれた人の顔
まず、監査法人で「あいつは優秀だな」と言われていた人を思い出してみます。
仕事が早い。会計基準を細部まで押さえている。クライアントの前でも物怖じせず、堂々としている。言われる前に終わらせている。自分の担当範囲を、誰に言われるでもなく積極的に広げていく。海外とのやり取りもこなす。力のあるパートナーのそばにいて、気に入られ、置いてもらえる。判断が早く、合理的で、行動力がある。クライアントもパートナーも、説得して動かせる。
書き出してみると、ある共通点が浮かびます。これらはほとんどすべて、「個人の力」の話なのです。
一人で速く処理できること。一人で正しく判断できること。一人で前に出て、相手を説得できること。監査法人で評価される優秀さは、煎じ詰めれば「一人で、速く、強く、前に出る」力だと言っていい。チームで動く仕事ではありますが、評価の単位は徹底して個人にありました。
そしてこの優秀さは、監査という仕事の構造とぴったり噛み合っています。監査報告書という絶対の締切がある。担当範囲が明確に切られている。基準という共通言語があり、それに照らせば白黒がつく。だからこそ、速く・強く・前に出る人が勝てる世界でした。
事業会社で「一目置かれる人」の顔
では、事業会社に移って「この人は社内で一目置かれているな」と感じた人は、どういう人だったか。
自社のビジネスを深く知っている。どの製品が、どういう仕組みで利益を生んでいるのかを理解している。工場の原価計算の中身を把握していて、原材料から複数の段階を経て製品ができあがる流れまで頭に入っている。コンサルのように論点をきれいに整理して、見やすい資料に落とせる。四半期の説明、予算の説明、中期計画の説明で、ばらばらの数字に一本のストーリーを通して、ビジネスとして語れる。システムから自分で数字を引っ張ってきて、差異を分析できる。そして何より、数字を出して終わりにしない。その数字から何が読み取れるのか、だから次に何をすべきなのか、というところまで提案できる。
ここでも共通点があります。事業会社の優秀さは、「ビジネスの理解」と「組織の中での動き方」に寄っているのです。
監査法人が「一人で、速く、強く、前に出る」力だとすれば、事業会社のそれは「ビジネスを深く知り、組織の流れに乗せて動かす」力です。同じ「優秀」という言葉を使っていても、中身がずれている。私が最初に面食らったのは、まさにこのずれでした。
ちなみに、理系の方が多く、その方々の多くは博士号を持っており、文系の方も国内最難関大学の出身者がほとんど。今まで経理系をやっていなかったので数字の読み方が違う、という話ではないのです。優秀な人たちが、監査法人とは別の方向に優秀だった。そう捉えるのが正確です。
半分は、そのまま効く
ここまで読むと「では監査法人の経験はリセットなのか」と不安になるかもしれません。そんなことはありません。
監査法人で鍛えた力のうち、事業会社でもそのまま資産になるものは、はっきりあります。
言われる前に動く先回りの姿勢。これは事業会社でも強い。むしろ、指示待ちの人が一定数いるぶん、目立ちます。自分の担当範囲を自分で広げていく姿勢も、そのまま評価につながります。判断の速さや行動力も、腐りません。基準に照らして物事を詰めていく思考の癖は、会計まわりの議論で確実に効きます。
冒頭で私が転んだのも、よく考えれば「能力」が足りなかったからではありません(と信じたいです)でした。提案の中身自体は悪くなかったのです。足りなかったのは、後で述べる「順序」と「お作法」だけだった。つまり、武器そのものは持っていた。使い方の作法を知らなかっただけなのです。
だから、これから転職する方には、まずこう言いたい。あなたの武器は無駄になりません。先回り、行動力、責任範囲を広げる姿勢、速い判断。これらはそのまま持ち込んでいい。捨てる必要はまったくないのです。
半分は、積み替える
問題は、残りの半分です。ここを積み替えないまま突っ込むと、私のように転びます。積み替えるべきものは、大きく二つあります。
一つめは、「知識は出発点にすぎない」ということ。
監査法人にいた頃、会計基準を知っていることは、それ自体が強い武器でした。基準を細かく押さえている人は、それだけで頼られたのです。ところが事業会社では、会計基準を知っているだけでは土俵にすら上がれません。私が痛感したのは、自社の原価計算を理解し、管理会計を使ってビジネスを語れなければ、何も始まらないという事実でした。
少し乱暴な言い方をすれば、基準を知っているだけの状態は「それ、ロボットにもできるよね」で終わってしまう。基準の知識は、ビジネスを読み解くための入口でしかない。入口に立っただけで「自分は会計のプロだ」と胸を張っていると、痛い目を見ます。求められているのは、その知識を使って自社の数字を読み解き、次の打ち手まで提案することなのです。
二つめは、「速さより、順序とお作法」ということ。
これが、冒頭で私が転んだ理由そのものです。監査法人では、速く前に出る人が勝てました。けれど事業会社では、正しい順序を踏まない限り、どれだけ中身が良くても通りません。部長に話を通してから、部長を立てて本部長へ上げる。資料は社内で通用する体裁に整える。出すタイミングも見計らう。こうした手順を飛ばすと、提案は中身を見てもらう前に止まります。
監査法人の感覚では、これらは「無駄な根回し」「遅い」と映るかもしれません。私も最初はそう感じました。けれど事業会社は、一人で完結する仕事ではなく、大勢の合意の上で物事が動く場所です。順序とお作法は、その合意を成立させるための仕組みであって、足を引っ張るためのものではない。ここを理解できると、撃沈の回数がぐっと減ります。
優秀さは、職場が決める
整理すると、こういうことになります。
監査法人の優秀さは「一人で、速く、強く、前に出る」力。事業会社の優秀さは「ビジネスを深く知り、組織の流れに乗せて動かす」力。前者のうち、行動力や先回りの姿勢はそのまま効く。けれど「知識があれば強い」という前提と「速く前に出れば勝てる」という前提だけは、積み替えないといけない。
突き詰めると、優秀さというのは、その人が持っている能力の絶対量で決まるものではないのだと思います。その職場が「何を優秀と呼ぶか」で決まる。同じ人が、場所を変えただけで「優秀」にも「ロボット」にもなりうる。これは少し怖い話でもあり、同時に救いでもあります。なぜなら、評価軸が変わっただけなら、こちらが合わせ方を変えればいいからです。
だから、転職を考えている方にお勧めしたいのは、入る前に一度、自分の武器を仕分けしておくことです。
自分が監査法人で評価されてきた力を、紙に書き出してみる。そのうえで、「これは事業会社でもそのまま効きそうだ」というものと、「これは積み替えが要りそうだ」というものに分けてみる。先回りや行動力は前者の箱へ。「基準を知っている自分」への自信や、「速く前に出れば通る」という成功体験は、いったん後者の箱に入れて疑ってみる。
この仕分けを入る前にやっておけば、少なくとも私のように、最初の案件で部長と本部長をまとめて呼びつけて撃沈する、という遠回りは避けられます。あなたの武器は、半分はそのまま効きます。残りの半分の積み替えを、転ぶ前に始めておきましょう。
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連載の入口は、この記事です。
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同じ捉え直しを、コミュ力についても書いています。
この記事で触れた「順序とお作法」を、権限のない立場でどう回していたか。その具体的な技術は、有料記事にまとめています。
この記事は、以下の記事をもとに、note向けに再構成したものです。より詳しい図解を含む元記事はこちらです。
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