【最終章】PLAYLIST STORIES SONG 02. 「明日のことは決して誰もわからない」Mr.Children『Tomorrow never knows』より SCENE.03 再会 (後編)
宴会場の笑い声は、もう聞こえなかった。
ユウイチとミカは、ラウンジの窓際に向かい合って座った。
窓の外には、高層ビルの明かりが並んでいた。
三十年前にはなかった建物。
色を変え続ける巨大な看板。
絶えず流れていく車のライト。
歌舞伎町の方向も、この場所からなら見えるはずだった。
けれど、どの光があの夜のネオンだったのか、もうわからなかった。
ウェイターが注文を取りに来た。
ユウイチはコーヒーを頼んだ。
ミカは紅茶を頼んだ。
「先生、まだ教えてるんだね」
「ああ」
「何年目?」
「三十一年目」
ミカが少し笑った。
「ベテランじゃん」
「長くいるだけだよ」
「まだ授業で緊張する?」
ユウイチは顔を上げた。
「覚えてたのか」
「最初のころ、黒板に書く字が震えてた」
「今日も言われたよ」
「みんな覚えてるんだ」
「俺だけ忘れてた」
コーヒーと紅茶が運ばれてきた。
ミカはカップへ視線を落とした。
細い指で、ティースプーンをゆっくり回す。
「ヨシノは?」
「私?」
「今、どうしてる」
ミカは少し考えた。
「普通に働いてる」
「普通に?」
「何度か仕事を辞めて、また働いて。引っ越したり、戻ったり。いろいろあった」
「そうか」
「気づいたら四十八」
ユウイチはうなずいた。
それ以上は聞かなかった。
ミカも詳しく話そうとはしなかった。
彼女がどんな三十年を生きたのか、短い言葉だけではわからない。
けれど、目の前に座っている。
紅茶を飲み、静かに笑い、自分の過ぎた時間を「いろいろあった」と話している。
それで十分な気がした。
⸻
「この辺も、変わったね」
ミカが窓の外を見た。
「三十年だからな」
「あの交番、まだあるのかな」
ユウイチは少し驚いた。
「覚えてるんだ」
「全部じゃないけど」
ミカは窓の向こうの光を見たまま答えた。
「歌舞伎町にいたこと。警察に連れていかれたこと。先生が来たこと」
一度、言葉を切った。
「タクシーのことも」
ユウイチの右手が、コーヒーカップの横で止まった。
「そうか」
「先生は?」
「忘れると思うか?」
ミカは小さく笑った。
「思わない」
しばらく、二人とも窓の外を見ていた。
ラウンジには低い音量で音楽が流れている。
グラスの触れ合う音。
カップがソーサーへ戻される音。
遠くで、二次会へ向かう同級生たちの笑い声が一度だけ聞こえ、やがて消えた。
「私ね」
ミカが言った。
「あのころ、何があんなに苦しかったのか、今はうまく説明できない」
ユウイチは黙って聞いていた。
「母親のこととか、学校のこととか。いろんなことがあったはずなんだけど、順番がもうわからない」
「無理に思い出さなくていい」
「うん」
ミカは紅茶を一口飲んだ。
「でも、海のことは覚えてる」
ユウイチは顔を上げた。
「暗かった」
「暗かったな」
「寒かった」
「十一月だからな」
「制服のまま、砂の上に座った」
「汚れてたよ」
「先生も」
「俺はコートだったから、まだましだ」
ミカが笑った。
高校時代の面影が、一瞬だけ戻った。
「あのイヤホンも覚えてる」
「片方ずつ聴いた」
「うん」
「曲の名前は、あとで教えてくれた」
「先生、知らなかったもんね」
「悪かったな」
「別に」
二人のあいだに、短い沈黙が落ちた。
ミカは窓の外へ顔を向けた。
「先生、あの夜、何も聞かなかったよね」
ユウイチはすぐには答えなかった。
三十年前の海が浮かんだ。
暗い水面。
砂の冷たさ。
何を言えばいいのかわからず、ただ隣に座っていた自分。
「聞かなかったんじゃない」
ユウイチは言った。
「聞けなかったんだよ」
ミカはうなずいた。
「うん。知ってた」
「今なら、たぶん聞く」
「今の先生ならね」
「警察にも戻る。学校にも報告する。家にも連絡する」
「ベテランだから?」
「そういうことになるのかな」
ミカは少し笑った。
「でも、あの夜は新米の先生だった」
「何もわかってなかったよ」
「私も」
再び、沈黙が訪れた。
けれど、気まずさはなかった。
三十年前と同じだった。
話すべきことはあるはずなのに、無理に言葉へしなくてもよかった。
⸻
ラウンジの奥に、黒いスーツを着た男が現れた。
ピアノ奏者だった。
譜面を数枚、グランドピアノの上へ置く。
椅子の高さを確かめ、鍵盤の前に座った。
ミカは、その姿をしばらく見ていた。
それから、ユウイチへ視線を戻した。
「あの夜、先生が迎えに来なかったら」
声は静かだった。
「あの夜、私、たぶん死んでたと思う」
ユウイチは何も言えなかった。
目の前にいる四十八歳のミカと、首都高速のドアから外へ出ようとした十八歳の少女が重なった。
「……そうか」
「うん」
「俺は、迎えに行っただけだ」
ミカは、ほんの少し笑った。
「それでよかったの」
ピアノ奏者が鍵盤へ手を置いた。
最初の音が、静かなラウンジに落ちた。
ミカが顔を上げた。
ユウイチも、その旋律に気づいた。
それは、あの夜、二人で聴いたメロディーだった。
三十年前と同じように、二人は何も言わず、その曲を聴いた。
三部作「明日のことは決して誰もわからない」
End
