「ひと様に迷惑はかけたくない」は、SOSのサインかも? | 老後の暮らしを整える
「ひと様に迷惑はかけたくない」というセリフ、おじいちゃんやおばあちゃんが、ひとりごとのようにつぶやくイメージだ。
義理の父も、80代後半になった頃から、誰にいうでもなく、口にしていた記憶がある。
特に、義理の母が亡くなった後は、健康に気を遣い、毎朝、近くの公園まで散歩をして、ラジオ体操をしてくる、という習慣を長く続けていた。自分の人生を、最期まで、自分でハンドルしたい、という思いが強いひとだった。
私の父も、あるときから、「ひと様に迷惑はかけたくない」と繰り返すようになった。私が、父と母で暮らしているのも、そろそろ限界が近づいてきてるなぁ、と感じはじめた頃だ。
人生の終盤は、誰しも、エンディング期を経て、最期のときを迎える、と私は考えている。その期間はひとそれぞれだけれど、最期のときを迎えるにあたっては、誰かのサポートを受けることは避けられない、と思っている。
赤ちゃんが、ひとりで生まれてくることができないのと同じだと思う。
ひとは、生まれてくるときも、最後のときも、誰かの手助けが必要なのだ。
社会的動物としての、にんげんらしさ、と考えてもいいんじゃないだろうか。
家族のサポートを受けるひともいれば、病院や介護施設のスタッフのサポートを受けるひともいるだろう。それは、必ずしも、自分の意のままになるとは限らない。
誰かのサポートを得ながら、最期のときを迎えることを、当たり前のこと、と考えれば、「ひと様に迷惑はかけたくない」とがんばる理由もなくなると思う。
なにをもって「迷惑」なのかは謎だけれど、「迷惑をかけたくない」とがんばったところで、最期のときを迎えれば、自分で棺に入ることはできないし、自力で火葬場に向かうこともできない。
年齢を重ねながらも、なんとかがんばってきた。でも、自らの老いに、いよいよ抗えないと感じ始めたとき、ひとは「ひと様に迷惑はかけたくない」といいたくなるのかもしれない。
実は、「ひと様に迷惑はかけたくない」ではなくって、本心は、「手助けしてほしい」なのかもしれない。
自分の限界を感じ、誰かに手助けを求めなければならない、と悟る。
けれど、なにを、どう頼めばいいのだろう?と思い悩む。
手助けを求めることを、自らを老いぼれだと認めることだ、とその意味を歪めてしまうひともいそうだ。
手助けを求めたいのに、まだまだ自分は老いぼれてはいない、とプライドがじゃまする場合もあるだろう。
「手助けしてほしい」という本心とは裏腹に、「ひと様に迷惑はかけたくない」というセリフが、思わず口をついてでてしまう。そう考えると、その強がりが、かえって悲しく聞こえてくる。
老いは、体力や気力だけでなく、判断能力、コミュニケーション能力も削いでゆく。
もうこれ以上がんばれない、と思っても、自分が、なにに困っているのかを、頭のなかで整理できない。誰に、なにを頼めば、問題を解消できるのか、そもそもなにが問題なのかも明らかにできず、相談することもままならない。
老いて、自分ではもうどうにもできないと悟る。情けなさ、不安、悲しみに、心が押しつぶされそうになる。頭のなかを整理することさえ、難しい。誰かに相談することすら、ままならない。
「ひと様に迷惑はかけたくない」というセリフは、声にならない SOS とも思えるし、思考停止のサイン、なのかもしれない。
もし、自分の口から「ひと様に迷惑はかけたくない」というセリフがでてきたときは、身近なひと、家族でも、近所のひとでも、かかりつけのお医者さんでも、とにかく、誰でもいいので、
「うまく説明できないのだけれど、しんどくて、困ってる」
と、遠慮なく伝えてほしい。
そして、「ひと様に迷惑はかけたくない」というセリフを聞いたら、そのひとが、困りごとを抱えて、それをうまく表現できないのでは?と思いを馳せ、サポートしてくれるひとに、きちんとつないであげる必要があると思う。
年齢は関係ない。困ったときは、遠慮せずに、SOS をだしたほうがいい。SOS のサインが、助けてくれる誰かに届くまで、あきらめちゃダメだよ!
