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「妻の骨」第4話(全5話)

 先ほどの部屋に入ると、職員によって扉が閉じられた。
 炉を背にして職員が立っている。その前には骨上げ台が設置されていた。棺の乗っていたストレッチャーだった。ステンレスと思われる金属製のテーブルが理科室を思わせる。

 骨、だった。横たわった姿のままの骨だった。布も肉も一切なくなった骨だった。

 あまりの美しさに鳥肌がたった。母の骨はもっと黄みがかっていたから、目の前にある作り物みたいな骨の白さが目に沁みた。眼球がビリビリと細かな痺れを起こし、頭部が熱を持つのを感じた。台の向こうに立つ職員が話し出したため、表面張力でどうにか留まっていた涙は零れずに済んだ。

 こちらが足で、こちらが頭になります、との説明から始まり、大腿骨や肋骨、鎖骨などの大きな骨から、右耳、左耳といった細かな部分まで説明してくれる。その口調は淡々としていながらも冷たさは感じられない、絶妙に感情を排除したものだ。骨の説明よりもその発声と口調に気を取られる。

 母の時もそうだった。一通りの説明ののち、立派なお骨です、と締めくくられた。しかし、同じ斎場でありながら、今回はその一言がないままに骨壺が用意された。
 あれはてっきりマニュアル通りのセリフだと思っていたが、そうではなかったということか。公営の火葬場であるから、役所めいたイメージを持っていたのかもしれない。まさか担当者によって違いがあるとは思いもしなかった。
 それとも、どの職員であれ、追従は言わないということか。しかし、妻の骨より母の骨の方が立派だなどとは考えにくい。そう思っていたのだが。

 促されるままに律子と共に箸を使い、儀礼的に数個の骨を骨壺に収めると、あとは職員が、銀色の塵取りとヘラのようなものを操り、不快な金属音を立てながら、久子の骨をかき集めていった。卓上箒で丁寧に粉末まで集め、塵取りの角から骨壺へと流し込んだ。
 いかに職員が丁寧に音を控えるよう心掛けていようとも、金属同士が擦れる無機質な音が耳に届く。

 久子は食器が触れ合う音が苦手だった。マナーとしての音だけでなく、ナイフを使った際に刃先が皿に触れる音や、食前にナイフやフォークやスプーンをテーブルにセッティングする際のかすかな音まで嫌った。それはまるで黒板を引っ掻く音と変わらぬ嫌悪感を招くらしかった。そのため、自宅のカトラリーはすべて木製でそろえていた。

 だが、外ではそうもいかない。外食をする際、正博が小さな接触音を立てただけで、久子はヒッと喉を鳴らした。しまったと気づいた時には既に、久子の開いた両手の曲げた指先がわなわなと細かく震えていた。その手で自身の胸や頭を掻きむしる様は、音が消えた後もしばし続いた。彼女の耳の奥に響く余韻はなかなか消えないようであった。

 正博の立てる音は一般的なマナーの範囲内であったし、そのような久子の性癖を知っていたから、かなり気を配っていたつもりだ。
 それでも久子は、痙攣の波が去ると、飲食店でのマナーを逸した声量で正博を罵倒した。

 職員の手が箸を繰る。詰め込まれた骨の頂上に頭蓋と喉仏が乗せられ、骨壺の蓋が閉じられた。
 全く縁のない者の手によって、久子の骨壺は白木の箱と白布とに、覆われていく。

 一連の作業を眺めながら、上から押さえて骨を砕くことをしなかったことに思い至る。
 骨壺に収まりきらない場合は、骨を砕いて隙間を作る。母の時はそうだった。だが、久子の収骨では、その過程がなかった。

 立派なお骨です、との言葉がなかったのは、やはりそういうことなのだ。久子は、小さな女だったのだ。

 遺骨を正博に渡そうとする職員との間に、律子が身を挟んだ。

「わたしが」

 言葉短く、しかし強い口調。涙をこぼし、鼻をすすり上げているにもかかわらず、ゆるぎない声だった。

 遺骨を抱えた律子の背を追ってエントランスホールに向かう。

「……では、ここで」

 律子は頭も下げない。

「あ、いや、納骨は?」
「それはこちらでやりますから」
「じゃあ、初七日とか」

 それも結構です、と律子は正博の言葉を押し返すように言った。

「だいたい、今日だって来なくてもよかったんですよ。姉の希望だから連絡したまでで。正直、断ってくれればいいのにと思いました。今朝も、連絡がつかないことで少し安心していたんです。遅刻ついでに来なければいいのにって。散々姉に苦労をかけたぐうたら亭主のくせして、よくのこのこ現れたものよね。こんな人を最後まで付き合わせるなんて、まったく、お姉ちゃんったら本当に愛情深いんだから……」

 そして盛大に泣き始めたので、正博は玄関前に列をなすタクシーに律子を誘導した。ドライバーにお願いしますと声をかけ、自分はそのまま歩き出した。

 斎場の門を出たところで律子の乗るタクシーが追い越していった。ちらりと見えた律子の顔は下を向いていて、顔は髪で覆われて見えなかった。

 その腕の中にあるはずの久子の骨を思って、空を見上げた。

 昔は火葬の煙は臭いがきつかったというが、今ではその排気がどこから出ているのかさえわからないようになっている。

 あの骨はたしかに久子のものなのだろうか。そんな疑念が湧く。
 もちろんそうであるに決まっている。取り違えていたら大ごとだ。正博の妻だった女はこの世での生を終え、骨と灰になったのだ。

 愛情、と律子は言ったが……今日この場に正博を招いたのはたしかに愛情だったのだろう。だが、律子が思うそれとは異なる。いまや正博のみがそのことを知る。となれば、これもまた愛情に見せかけた呪詛なのかもしれなかった。

 駅までの道は坂を下るだけだ。昔から火葬場としてここにあった斎場の周囲に民家はない。寺と墓地が交互に現れる。盆でも彼岸でもないこの時期の墓地に人影はない。
 太陽は中天をわずかに傾いたところで、建造物の少ない道に日陰もなく、強い日差しは正博の額をチリチリと焼いた。脇と背がじっとり汗ばんでくる。
 上着を脱ぎ、ネクタイを外してシャツの胸ポケットに押し込んだ。襟元のボタンを一つ二つ外すと、呼吸が楽になった。日差しは強くとも、風は涼やかだ。
 ピーヒョロロと声が耳に届き、見上げれば、鳶が一羽、うろこ雲を背景に旋回していた。

 駅に着いた頃には暑いくらいに体温が上がっていて、薄手のコートを羽織る人もいる中、正博はシャツの袖を肘までまくっているほどだった。

 正博が外出先でこうした姿をすることを久子は嫌った。男性が交際中の女性の肌の露出を咎めるのは稀に聞く。交際中とはいえ、相手にそのような意見をするのはどうかとも思われるが、理解できなくもないし、少なからずあることだろう。ただ、その逆はどうだろう。正博は耳にしたことがなかった。しかも、ただの腕まくりだ。上半身裸でいるわけではない。

 初めのうちは愛らしく感じた。まだ互いに二十代だった頃のことだ。年月を重ねるごとに多少不便を感じることもあったが、久子の不安と不機嫌を回避するためならば、厭うほどのことでもなかった。そうなのだ。けして苦痛を感じたわけではない。

 改札機に足を向けた途端、すみませんが、と背後から声をかけられた。振り向きつつ、あとから改札を抜けようとしていた人を先に通す。声をかけてきたのは同世代と思われる女性だった。

「すみません、ここってJRの駅ではないですよね?」

 この路線は私鉄である。聞けば、今しがたタクシーを降りたが、路線図を見たところ、どうも目的の駅がない。よく見れば駅名も少しちがう。そういうことらしい。

「そうですね、私鉄の駅ですね。どちらへ行かれる予定でした?」

 タクシーで告げたという駅名はたしかにこの駅だった。なるほど、土地勘のない人にはわかりにくいかもしれない。JRの駅の方は頭に「新」とつくのだ。

「ああ、ちょっと紛らわしいんですよねぇ」

 幸いその駅は、徒歩五分ほどの場所である。正博は道路に出て、信号やビルを指さしながら道順を教えた。女性は自分のミスに照れながら、礼を言って歩き出す。無事にJRの駅を目指す女性の背中を見送って、改札口を抜けると、駅員と目が合った。一連のやり取りを見ていたのかもしれない。

 駅ならば駅員に聞けばいいものを、わざわざ今しも改札口を抜けようとする乗客に声をかける理由はなんだろう。しかも今日の正博は、上着を脱いでいるとはいえ、明らかに喪服姿だ。

 久子によれば、道を尋ねられやすい人というのがいるらしい。正博がそれだとも言った。憎々しげに。しかし、正博にはどうすることもできない。

 帰りの車内は行きよりも混んでいた。座席がすべて埋まり、吊革につかまる人も少なくない。正博もドア付近の吊革につかまった。

「仕事を辞めてほしいの」

 久子がそう言ったのは、正博が結婚の二文字を口にした際の返事だった。
 結婚したら仕事を辞めてほしい。扶養家族として申請できるし、無職でも困らないでしょう? と。

 外と内との役割分担をしようという意味だと解釈し、正博は快諾した。正博は会社員であることにこだわりはなかったし、久子の給料は二人で暮らすには困らない額だったので、久子が望むなら断る理由は見当たらなかった。むしろ、共働きで仕事も家事も対等に負担するより、完全分業は効率が良いのではないかとさえ思っていた。

 それでも後輩の育成やらぜひにと与えられる仕事の数々に、やりがいを感じなかったわけではない。頼まれれば断れないという性分でもある。そうしてずるずると歳月を重ねた。

 久子は不満そうだった。不満を隠そうともしなかった。
 帰宅時間が遅い、残業などしないで、飲みになんていかないで、となじるあたりまでは可愛げがあった。寂しさを怒りに変えているのだと思えたからだ。

 だが次第にその要求は難易度を増してきた。女と口をきかないで。通勤電車で他人に触れないで。
 仕事となれば性別など無関係に口をきくが、それすら制限したがる。通勤ラッシュで押し潰されるのは当然のことで、他人に触れるなというのは土台無理な話である。

 攻略できない難易度の高さと、久子の圧力に屈して、正博はついに退職した。


「妻の骨」全5話
第1話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/n72742a5f14e7

第2話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/n3d3dd408c3b1

第3話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/nfb73ac0912cb


第5話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/n2395e6e39694



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