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「妻の骨」第3話(全5話)

 炉前ホールはほとんどのブースの扉が閉まっていて、二階の休憩室が並ぶ廊下と変わらない風景だ。この斎場は近代的な施設だと兄は言っていた。落ち着きはあるが陰鬱ではなく、妙な言い方ではあるが、居心地がいい。それによく配慮されている。

 新しい施設でも、その多くの炉前ホールは大部屋になっているという。あちらこちらに棺や骨を囲んでいる輪が見えるのは虚しくなりそうだった。目の前の人は、彼らにとって特別な誰かであるはずなのに、少し見渡せば、たくさんの命のひとつでしかないことを痛感させられるのではないかと思えた。そのことに抵抗を感じている自分にはっとした。去っていくのは目の前の誰かだけではない、自分にとって特別な誰かは、その他大勢の人にとっては誰でもないのだと突きつけられる気がした。

 その点、炉前が個室になっているのは繊細な配慮に思われた。見えない、聞こえないというのは大きい。たった一枚の壁の向こうで、見ず知らずの他人が同じことを行っていると知っていても、それをつかの間忘れることができた。

 廊下に面した壁に縦型十五インチほどの電光ディスプレイが表札のごとく並んでいる。《狭山家》と表示された部屋の前に職員が立っていて、律子が書類のようなものを手渡すと中へ入るように手ぶりで示した。

「数珠は」

 空手の正博を見て、律子が低い声で語尾を上げずに問う。

「忘れた」

 正博の呟くような返答に、律子は鼻に皺を寄せたが舌打ちはしなかった。
 数珠などどこにしまったか記憶にないし、探したところで見つからなかっただろう。正直に言うならば、持参するのを忘れたのではなく、数珠のことなど念頭になかった。

 母の時は、通夜だ、告別式だ、炉前での読経がどうだ、と「簡素な見送り」であるとの兄の言葉を疑うほどやることは多かった。だからこそ数珠だの香典だの袱紗だの白ハンカチだのと、こまごまとしたものまでそれこそ数珠つなぎに浮かんだのだが、直葬とは火葬以外の流れを一切排除したものだと聞き、喪服の着用しか頭になかった。

 たとえ数珠を持参することを覚えていても、時間の無駄になると判断して探さなかったと思う。ただ、それを正直に話せば、律子が不機嫌になるのは容易に予測できた。忘れた、と端的に、全面的に否を認めるのが最も効果的なはずだ。波風を立てないためなら真実などどうでもいい。久子と暮らしてきて身に着けた手練だった。

 既に運び込まれていた棺の小窓が開けられていて、久子の顔が見えた。律子が数珠を掲げて手を合わせる。正博も大きく一呼吸して手を合わせた。目を開け、久子を見る。
 二年程度では少しも老けてはいなかったが、当然ながら生気は感じられなかった。よく人は、まるで眠っているようだったなどと言うが、なにがどうちがうのか、明らかに睡眠中の顔とは異なっていた。

 棺の蓋が職員の手によって静かに閉じられ、久子の姿を目にする機会は永遠に失われた。

 棺がストレッチャーから炉内へ滑り込む瞬間、律子が突然泣き出した。

「お姉ちゃんっ」

 職員の手によって化粧扉が丁寧に閉じられてから、背後の出口が開かれた。
 出口に立つ職員に、一時間半か二時間ほどかかります、アナウンスでお呼びしましたらお越しください、と静かな声で説明され、正博は無言で首肯した。

 律子はハンカチを広げた両手に顔をうずめている。背に手を差し添えようとしたが、気配に気づいた律子に睨まれ、行き場のなくなった右手で自分の首筋を撫でた。

 母の時は精進落としとして貸し切り休憩室で仕出し弁当を食べつつ、骨上げまでの時間を過ごした。親族だけとはいえ、それなりに人数もいたから、どうにか間が持った。
 だが、元義理の妹と二人、開放的なロビーでどう時間をすごせばいいのだろう。ほとんどの人は休憩室を利用するらしく、二十脚以上あるロビーの椅子はどれも空だった。
 空腹は感じないし、二人だけで休憩室を借りるのは料金的にも空間的にも無駄であることはわかる。まさか金をケチっているわけではあるまいな、と下世話な疑念が湧く。たとえそうだとしても正博にそれを咎めるつもりはなかった。もはや赤の他人なのだ。

 律子は四人掛けのテーブル席でグズグズといつまでも鼻をすすっている。正博はのそりと立ち上がって自動販売機に向かった。ホットの緑茶と紅茶をひとつずつ買う。ボタンを押すたびに、ゴトン、ゴトン、とやけに大きな音が響いた。

 二百八十ミリリットルのペットボトルを二つ、ラベル面を向けて差し出すと、律子は鼻声で礼を言って紅茶を手に取った。

 正博は、律子の斜向かいの椅子を引いた。特に嫌がる素振りもないので、そのまま腰かける。温かい飲み物で少しは気持ちが落ち着いたのか、律子の涙が止まっていた。

 沈黙がいたたまれなくて、今日は呼んでくれてありがとう、と言ってみた。今日初めて律子と目が合った。

 突然電話がかかってきたのは二日前のことで、スマートフォンに表示された名前が誰なのかしばし考え込んでしまった。
 元妻の妹が狭山律子という名だということは知っていたし、名前が表示されるのだから、正博が自分で電話帳に登録をしたに決まっている。だが、久子がいたころでさえ一度も律子からの電話を受けたことなどなかったし、とっさに理解できなくても当然だ。

 まず告げられたのは久子が亡くなったということだった。え、と言ったきり言葉の出てこない正博に構うことなく、律子は淡々と要件を述べた。
 火葬と納骨のみにしてほしい。火葬には正博だけ呼んでほしい。それが本人の希望だということ。そして、その火葬の日時。それだけだった。
 死因も、なぜ元夫を火葬に呼ぶのかも、まったく説明がなかった。

 正博は話を聞いているうちに、相づちを打てるようにはなったが、こちらから律子に質問してはいけないような気がして、結局それらの疑問は宙に浮いたままだった。

 緑茶を一口飲んでから尋ねた。

「どうして俺を呼んだんですか?」
「姉が望んだので」
「それは聞きました。なぜ望んだのか、その理由くらい聞いているでしょう」

 律子が返事をしてくれたことに勇気を得て、正博は問いかけを強めた。強引に聞き出すのは気が引けたが、既に縁の途切れた間柄だし、おそらく今後会うことはないであろうと思うと、どうしても確認しておかなければならない気がした。

「理由は、本当に知らないんです。ただ、その理由につながりそうなことなら知っています。――姉が離婚届を提出したのは、先月のことでした」
「え。書いたのは二年前ですよ? 出ていく時に渡したのをはっきり覚えています」
「そのようですね」
「久子は二年間、その離婚届を持ち続けていたと?」

 律子は不満とも嫌悪ともつかない表情で頷いてみせた。

「そういうことになりますね。でも、あなたのもとへ戻る気があったとは思えません。この際だからはっきり言ってしまいますけど、仕事もせず、かといって主夫というわけでもないあなたと長年暮らした姉の苦労は、離婚するに十分な理由になると思うのです。姉は勤めに出て、帰りにスーパーで食材を買い、帰るとすぐに朝干した洗濯物を取り込んで、それから食事の支度をしたんですよね? その間、あなたは小さな子供のようになにもしない。そういうの、なんていうか知ってます? ヒモですよ、ヒモ。今日だって、お酒を飲んでいるでしょう。自分では気付かないかもしれませんけど、会った瞬間から匂いがしているんですよ。まったくなにを考えているんだか」

 律子は最後に、お姉ちゃんの希望じゃなかったら絶対に呼んだりしなかったのに、と聞えよがしの独り言をつぶやいて、紅茶に口をつけた。

 間が持たずに、正博も握りしめたままの緑茶を少しだけ飲んだ。そのまま黙っていると、律子の方が口を開いた。

「……否定、しないんですか?」
「しません」

 律子の言ったことに間違いはない。久子と正博の関係は母子の関係に似ていた。子供ならば成長していく分、正博よりよほど立派だ。ヒモという呼称はとてもしっくりきた。
 正博は両手で包んだ小さなペットボトルのふたをじっと見つめた。

 がっかりです、と溜め息まじりの律子の声がした。

「少しは反論してくれるかと期待していたんですよ。姉は、ちがうの正博さんは悪くないの、って言っていたから」
「……そんなことを言っていましたか」
「ええ。でも、あなたをかばっていただけのようですね。まあ、わかっていましたけど。だって、どうちがうのかって問い詰めても、微笑むだけで答えたことなんてなかったもの。そんな相手をかばうなんて、本当にお人よしなんだから」

 怒りの口調にもかかわらず、そこには愛情が溢れていた。溢れすぎたのか、律子はハンカチに顔をうずめた。ひとたび零れはじめた涙と感情はとどまる様子はなく、律子は肩を揺らし、嗚咽を漏らし、時おりしゃくりあげながら泣き続けた。

 いたたまれずに眺めていたペットボトルの「茶」の文字がゲシュタルト崩壊を起こし、正博に世界の危うさを示しているかに思えた。楽しいだとか好きだとか大切だとか、そんな感情は遥か遠く、崩れた一画一画のように、いつしかバラバラで意味をなさなくなってきた。
 久子が離れていったからではない。それ以前から、それとは気付かぬうちに崩れていたのだ。
 久子に養われ、世話をされ。それは母と子というよりも、飼い主とペットに近い関係だった。正博はいるだけでよかった。それはなんて――

『狭山家さま。狭山家さま。ご収骨でございます。一階、炉前ホールへお越しください』

 二人揃って勢いよく顔を上げた。時計はまだ正午を十五分過ぎたくらいだった。

「……早いな」

 思わずつぶやくと、律子も自身の腕時計を見ながら「早いですね」と答えた。
 火葬は一時間半から二時間と言われたはずだ。当然個人差があり、時間は目安でしかない。とはいえ、標準体型であった久子だから、標準時間で焼き上がると思い込んでいた。老身の母でさえ二時間近くかかっていたのだから、久子も当然そのくらいはかかるだろうと見積もっていたというのもある。

 棺が炉内に押し込まれる時でさえ大きな心の変化はなかったというのに、予想していなかった火葬時間の短さに、眉間の奥がつねられるように収縮した。正体不明の何かによって体内の水分が絞り出されそうで、正博はわずかに顎を上げた。

 律子に向かって手を開くと、空のペットボトルを渡された。受け取って壁際のごみ箱に捨てる。ごみを回収したばかりだったのか、底にあたる音が二つ響いた。

 足早に戻ると、エスカレーターの乗り口で律子がこちらを向いて待っていた。律子との間を一段あけて足を乗せる。まさか追い越す人もいないだろうと思うが、左に寄って立つ習慣はこんな場所でも発現する。
 久子がいたら一喝されそうだ。

「本当はエスカレーターを歩いてはいけないのよ」

 そう言って久子は、正博の右側に立ったものだ。それならば自分が歩かなければいいだけであろうに、わざわざ追い抜こうとする人の進路をふさいでいた。
 後ろに人が詰まり、苛立ちが伝わってきても久子は澄ましていた。正博の方がそわそわと落ち着かず、後方に気付いていない素振りをするのに必死だった。

 まさか久子の死因はなにかのトラブルに巻き込まれた結果なのではないかとの疑念が湧く。病気か事故か、と思っていたが、逆上した誰かの手によるものと考えるのが自然なことに思えてきた。

 逆上して襲われる、もしくは、不機嫌な態度を示した相手によって引き起こされた事故。たとえば、エスカレーターで右側に立つ久子を強引に追い越そうと試みた誰かが、勢いあまって久子を突き飛ばす形になってしまったとか。

 いや、それだと、亡くなる前月に離婚届を提出した理由がわからない。それとも、離婚届提出のタイミングはたまたまだったというのか。その後になにが起ころうとも先月提出されるという行為は動かなかったのか。

 なかった過去も、訪れない未来も、今ここで夢想することになんの価値もない。久子はもういない。それだけのことだ。


「妻の骨」全5話
第1話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/n72742a5f14e7

第2話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/n3d3dd408c3b1

第4話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/n033947a167ee

第5話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/n2395e6e39694




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