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「妻の骨」第5話(全5話)

 自宅最寄り駅はやわらかな光に包まれている。
 かつて磁気定期で乗車していた改札口を、ICカードをタッチして外に出た。

 平日の昼下がり、住宅街に車の通る気配はない。行きに出会ったトラ猫が道の真ん中で腹を空に向けてだらしなく眠っている。いくら車が通らないとはいえ、通行止めになっているわけでもないのに寛ぎすぎだろうとあきれる。驚かさないように足音を忍ばせて猫の脇を通る。それでもアスファルト伝いに響いたのか、猫は薄っすら目を開けた。先ほどはものすごい勢いで走り去ったが、今はちらりと正博を見ただけで、すぐに目を閉じた。

 正博が退職したのちも、久子は変わらず家事をこなしていた。家のことは俺がやるよ、と言っても聞かなかった。対等に分担していたはずの家事は、なぜかすべて久子がやるようになった。楽ではあるものの、久子にばかり負担をかけるわけにもいかない。正博は、久子が留守にしている昼の間に家事をこなした。

「どうして勝手にやってるの!」

 褒められたくてやったわけではない。そうではないが、まさか叱られるとは思いもしない。正博は一言も返せなかった。

「これからはなにもしないで。全部わたしがやるから」

 そうは言われても鵜呑みにはできない。なぜそういう理屈になるのか。これでは今までより更に久子の負担が増える。そんな反論すら許される雰囲気ではなかった。

 なにもしないことがもっとも久子を穏やかにさせた。時間的にも体力的にもきつかったはずだ。せめて精神的負担をかけないことだけが、正博に許された役割だった。

 玄関を開けると、かすかにウイスキーの匂いが残っていた。革靴を脱ぎ捨てると、途端に身が軽くなった気がした。手にしていた上着を部屋の隅に放り投げ、台所の流しで軽く手を洗ってそのまま手杓子で水を飲んだ。カルキ臭がした。床に転がったままのグラスを拾い上げ、「不燃」のラベルが張られたごみ箱にそっと捨てた。

 ウイスキーの瓶を手に、蛇口をひねる。流れる水に沿うように、琥珀色の液体を流す。匂いが広がる。久子の匂いが。

 出会ったころから、正博とはちがい、久子は飲める口だった。それにしても飲みすぎだったと思う。正博が家にいるようになってから特に酒量が増えた。飲み始めは上機嫌でも、次第に乱暴な口をきくようになり、それでも吐くまで飲み続けた。正博を叩きながら吐いたこともある。そんな時でも、抱き締めることが許されるのは久子だけで、正博から腕を回すことは認められなかった。

 瓶が空になっても、匂いが残っている。蛇口を開いたままにして、瓶を「不燃」に捨てると、正博は畳に転がった。毛羽立った畳がチクチクと弱い痛みを与えてくるのは変わらなかったが、天井の顔が見当たらなかった。見ればたしかに天井板の節がいくつか散っているのがわかるのだが、どの節が目鼻口を形作っていたのかさっぱりわからない。位置関係から、このあたりだろうと見当をつけてみるものの、多分これか、という程度にしか判別できない。正博と久子を繋いだあいつは、ようやくこの家から出て行ったのかもしれない。

「久子、天井のやつがいなくなったよ……」

 もしやあいつらは今頃一緒にいるのではないかとの考えが頭をよぎり、少し楽しくなる。

「久子……」

 かつてのように呼んでみる。後年は声をかけることさえ躊躇われたから、最後に名前を呼びかけたのはいつだったのか思い出せない。

 最後に見た久子の顔を思い出そうとするが、脳裏に浮かぶのは、あの、白い骨だった。ステンレスの骨上げ台に横たわる、鳥肌が立つほどに美しい骨だった。布も肉も灰になった、久子の芯。

 開け放したままの窓から吹き込む風が冷たさを増している。寒い。そろそろ閉めなければ。

 鼻が慣れたのか、ウイスキーの匂いを感じなくなっている。ステンレスを打つ水音が耳障りだ。そろそろ流しの水を止めなければ。

 そろそろ仕事を探そう。

 そろそろ引っ越しもしよう。

 正博は、黒いネクタイを投げ捨てた。

      (了)


「妻の骨」全5話
第1話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/n72742a5f14e7

第2話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/n3d3dd408c3b1

第3話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/nfb73ac0912cb

第4話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/n033947a167ee


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