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「妻の骨」第1話(全5話)

【あらすじ】
正博の元妻・久子が亡くなった。久子は弔いについての希望を妹の律子に伝えていた。火葬と納骨のみにしてほしい、火葬には正博だけ呼んでほしい、と。
律子は姉を不幸にした正博を敵視していたが、姉の遺志を尊重した。言われるがままに火葬に立ちあう正博。そんなある秋の日の4時間ほどの物語。

 寒い。
 正博はアラームを止めた手を布団の中に引っ込めた。もう薄掛け布団では冷える。ここのところ毎朝目覚めるたびに、布団を入れ替えようと思ってはいる。だが今日は出かけなければならないし、とりあえずはこのままだな、とのそのそ起き上がる。薄いカーテン越しに朝日が差し込んでいた。

 伸びとあくびをしてから、寒い寒いと呟きつつ古い洋箪笥を開けると、軋みと共に樟脳の匂いがゆったりと漂い出てきた。剥がれかけた化粧板の破片が左薬指に刺さり、うっ、と短い声が漏れる。指先の太い棘を引き抜くと、ぷくりと赤い玉が生えた。普段なら舐め取るか、ティッシュを巻く程度で放っておくのだが、今は服を汚すといけない。ひとまず数枚引き抜いたティッシュで薬指ごと握り締め、薄暗い六畳間を横切った。

 開け放した襖の敷居を越えたところで、畳がぐんと沈んだ。床板が腐っているのだろう。もう何年も前から床のあちこちが緩んでいる。

 滅多に触れることのない薬箱を求めて押入れを漁る。ひんやりとした木箱の中は湿布やいくつかの薬の匂いが染みついていて、ツンと鼻腔深くに入り込んだ匂いに涙腺が刺激された。息を止め、眉間に力を入れることで、出かかっている涙をどうにか押し留めた。

 喪服はところどころにカビが生えて白くなっていた。前回着たのは、この前の冬のことだったから、まだ一年も経っていない。それなのに、もうカビが生えているとは。やはりクリーニングに出すのを惜しんだのがいけなかったのだろうか。それとも風に通してからしまわなければならなかったのだろうか。そのどちらもせずに、またすぐ出番が来るかのように扱ったせいで、今回の出来事を招いてしまったのだろうか。そんなばかなことがあるか、と思うものの、腹の底が重くなるのだった。

 たとえそうだとしても、今更どうすることもできない。そう自分に言い聞かせ、ことさらに勢いよくハンガーをカーテンレールに掛ける。
 前後をくるくると回しては、まだらに浮かぶカビの多さに溜息をついた。濡らしたタオルで白い部分を叩いているうちに、虫食いの穴が開いていないだけましだったと思えてきた。

 久子がいたら、喪服が必要とわかった時点で確かめるべきだったのよ、と叱られたのだろう。いや、久子がいたら、正博が自分で喪服を出すことなどなかったはずだ。事前に洋箪笥から出され、カビや虫食いのチェックも済まされ、樟脳臭さを取るために長押に吊るされていたはずなのだ。正博はその用意された喪服に袖を通すだけでよかった。

 久子はいつだって、正博が望むより早く与えてくれた。空腹を訴える前に食事ができていたし、風呂から上がれば着替えが用意されていた。朝目覚めれば、夏は涼しく、冬は暖かな部屋が用意されていた。

 久子の寝顔を見た記憶はほとんどない。正博より遅く眠りにつき、正博より早く起き出していた。たまに夜中に尿意をもよおして目を覚ました時に、隣で眠る久子を見下ろしたりすると、とても妙な気分だった。

 今この状況を久子が見たら、なんと言うだろう。久子の声を思い浮かべようとしてみるが、言い回しどころか、声の質さえ思い出すことができなくなっていて、二年の歳月が改めて正博を縛り上げていく。

 別れてたった二年。それだけで共に過ごした二十数年が薄れていく。

 今この時まで、忘れているという可能性にさえ思い至らなかった。いつまでも久子のすべてを覚えているつもりでいた。いや、もっと馴染むように。覚えておこうとさえ思わなかった。覚えているとか、忘れていくとか、そんなものは無縁だと思っていた。無縁だということすら思わなかった。まばたきのように、意識とはかけ離れたところに存在していた。久子がいなくなった後の正博の記憶も、いなくなる前の久子の存在も。そこにあるのが当然のもの。それが久子だった。

 柱時計を見上げると、短針はまだ九の文字の中心にあった。火葬は十一時だが、三十分前には到着しているようにと言われている。ここから火葬場の最寄り駅まで急行なら二駅、普通でも五駅、そこからタクシーで五分だというから、十時過ぎに家を出れば間に合うはずだ。

 畳の沈む部分を避けて敷居を越える。台所の床板がぎしぎしと鳴る。この家もあちこち修繕が必要だ。だが、定期収入のない正博にそんな経済的余裕などないし、自分一人ならば住み家などどうでもよかった。

 流しの縁に手をかけ、すっかり立てつけの悪くなった戸を開きながら屈み込む。二年前に久子が出て行って以来動かされることのなかった調味料のボトルらが、行儀よくラベルの表を見せている。醤油の影に隠れていた瓶の首を握りしめ、ヨッと声を出して立ち上がった途端、喉奥に這い回るものを感じ、ひとしきり咳込んだ。

 いつのものだかわからないウイスキーが、それよりも古くから我が家にあったグラスに注がれる。自ら瓶を傾けていながら、自分ではない者の手で注がれている錯覚に陥る。家の中でグラスを手にしたのは久しぶりだからかもしれない。普段はコンビニで買ってきたペットボトル飲料で済ませているし、歯磨きの際は手柄杓で口を漱いでいる。

 製氷室を引き出そうとしたがびくともしない。何度か強めに引っ張って、ようやく現れた氷は、巨大な一つの塊になっていた。溜め息のかかった氷を製氷室に戻す。

 ウイスキーは生温いまま飲むしかない。グラスを傾けると、琥珀色の液体は水よりも緩慢な動きで口の中に滑り込んできた。機械油のような臭いが舌先を重くする。とろりと喉に絡みつく。

 酒を口にしたのは久しぶりだ。うまいのかまずいのかさっぱりわからなかった。わかるのはただ、液体の辿った跡が焼けただれたように熱く痛むということだけだ。その痛みを強く感じたくて、一気に残りを流し込んだ。
 空のグラスを床に置き、体も床に転がした。

 表替えどころか掃除もまともにしていない畳は毛羽立ち、近頃毛量の減り始めた頭部をチクチクと刺激した。痛み寸前の痒みを意識から追い出すために、天井に浮かぶ顔と見つめ合った。顔といっても、おかしなものではない。ただの天井板の節が顔のように見えるだけだ。
 なあ、と天井の顔に向かって声をかけてみる。

「久子を覚えているだろう?」

 しばらくぶりに震わせた喉は、かすれた音しか鳴らさなかった。

 久子がこの家を出て行く日の朝まで、ここに二組の布団を並べていた。入籍前の、共に暮らし始めたころから数えてかれこれ二十年余りの間、ひたすらに正博たちを見下ろしてきた天井のやつには報告しておいてやろうという気になった。

 長く暮していれば口をきかなくなることもある。それでも若いうちは、照れたり甘えたりしつつ、いさかいなど忘れたふりをして、なにごともなかったかのように会話を始めたものだ。だが、二人揃って四十代になったころには、かつてのような幼い面をみせるのは躊躇われた。今さら見栄を張るつもりもなければ、取り繕う必要もないのだが、無邪気で純粋な感情はとうに失ったふりをした。おのずと仲直りをする機を逸しがちになる。

 そんな時、久子と並んで床に入ると目につくのが天井の節だった。今日のできごとや、明日からの予定などを、天井から見下ろす名もなき誰かに向かって語りかけた。その声は当然、隣で横になる久子の耳にも届いていて、彼女もまた天井に向かって語りかけるのだった。天井を仲介しつつ正博と久子は語り合った。他愛もない話ばかりだったように思う。どこそこで野良猫を見つけただの、一度も赤信号にあたらなかっただの、そんなどこにでもある話だった。そうしていつしか天井を介さずに話しているのだった。

 日々が重なれば歳もかさむ。いつしか正博も久子も、五十の歳が目前に迫っていた。
 久子の不機嫌を感じ取っても、その理由を問うことはなかった。正博に原因があるなら自ら非難されるのも馬鹿馬鹿しかったし、ほかに原因があるのなら、正博には手の出しようがないことで愚痴られては、とばっちりを受けてしまう。なにが原因であれ、久子の不機嫌を掘り起こすことに魅力のかけらもない。

 それでも初めのころは、それに気付かずにいちいち声をかけていた。いや、気付いていたのかもしれないが、よく覚えていない。久子の反応など考えもせずに、ただ気になったから理由を問うていた。その理屈からするならば、不機嫌の理由を問わなくなったのは不利益の回避だけでなく、興味がなくなったというのが本当のところかもしれない。

 この期に及んでもなお、かもしれない、としか言えない俺は、とても俺らしいと正博は自嘲する。

 かつては、久子から向けられる好意を増長させたいがための言動が多かった。次第に、軽蔑を避けるためにはどうすればいいのかと、保守的なことばかり考えるようになっていた。根底にあるのは常に同じで、離れてほしくないとの思いだ。引き寄せようと必死だったのに、気付けば、失うことを恐れるようになっていた。失われなければ多少距離があろうとも問題ではなかった。かつては、一ミリの隙間もないほどに近づき、できることなら互いに埋め込まれて溶け合ってしまいたいと思っていた時期もあったが、今ではどうということもないと思うようになっていた。怯えるべきは手の届かないほどの距離。いざという時に手が届き、呼んで振り向く距離にあるならば、その隙間はどれほど開いていようとも構わなかった。波の立たない潮だまりに漂う毎日が心地よかった。

 いつしか天井の節に久子の目鼻を重ねていた。その目に促された気がして時計を見ると、既に十時を回っていた。

 慌てて立ち上がった拍子に、空のグラスが台所まで飛び、床板の上をゴトゴト音立てて転がった。グラスを蹴飛ばした右足の小指の痛みにしばしうずくまるが、痛みが引くのを待つ時間もなく、左足に重心をかけて窓辺に向かった。
 ハンガーから上着とパンツを外したところで、一度に手にとってしまっては着替えられないではないかと気付く。それ以前に今着ている色褪せたTシャツと膝の出たジャージを脱がなければと、裏返るのも気にせずに勢いよく剥ぎ取る。
 髭も剃っていなければ洗顔もしていない。下着一枚でただうろうろと歩き回っていただけで、時計の針は十分近く進んでいた。

 時計を見上げ、所要時間を計算し直す。急行なら二駅、普通でも五駅、そこからタクシーで五分だから……。

 はたと気付く。十時過ぎに家を出れば間に合うというのは計算ミスだった。ここから駅までの移動時間を考慮していなかった。

 しかし、もはやそんな計算ミスは問題ではなかった。たとえ今すぐ駅前に立てたとしても間に合うはずなどない。十時半になろうとしていた。

 正博は素早く喪服を身にまとうと、ネクタイを胸ポケットに押し込んで玄関へと向かった。立てつけの悪い下駄箱の引き違い戸はガタガタ騒がしいだけで開く気配がない。靴下のまま三和土に降りて戸を蹴り飛ばすと、レールから外れた戸が手前に倒れてきた。一年もの間しまいっぱなしになっていたはずの黒の革靴はグレーに見える。なぜか砂埃にまみれていた。そのまま足を入れると、足の裏にざらつきを感じたが、構わず出掛けた。


「妻の骨」全5話
第2話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/n3d3dd408c3b1

第3話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/nfb73ac0912cb

第4話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/n033947a167ee

第5話 https://note.com/toko_shimotsuki/n/n2395e6e39694

#創作大賞2023 #恋愛小説部門