四杯の湯気の立つうちに——四人の書き手をめぐって——ペイフォワードプロジェクトⅡ
あの一杯のあと、長い時間が過ぎました。
台北の日暮れどき、財布を部屋に忘れて出された、待用のコーヒー。濃くて、少し苦い、あの一杯のことは、前に書きました。飲みほして黒板の数字を見た時、ずっと胸の底で解けずにいた、一つの謎が浮かんできたのです。
子どもの頃、父は酒が好きでした。飲んだあとは決まって、私を連れて麺線(ミェンシェン)を食べに行きます。湯気の立つ椀を前に、父はいつも、三人分を頼みました。けれど、卓に運ばれてくるのは、二人分だけ。父と私で、椀は二つ。三つ目は、いつまで待っても来ませんでした。
酔った父が、数を数え間違えたのだ——長い間、私はそう思っていました。ほろ酔いのついでの、おかしな癖の一つ。来ない三人目を少しだけ待ちながら、私は麺線をすすっていました。父は何も言わず、私も、とうとう聞けずじまいでした。
台北のカフェで白墨の数字を見た時、あの三つ目の椀が、酔いのせいではなかったことに気づきました。父は、名も知らない誰かのために、一杯を先に払っていたのです。私たちの卓には来ない、けれど確かに、あとから来る誰かの前へ運ばれていく椀。しらふでも酔っていても、父は一度も、そのわけを口にしませんでした。
頼んだのに来ないもの。頼んでいないのに、いつか誰かのもとへ届くもの。恩送りも、待用も、たぶん、この三つ目の椀のことなのだと思います。受け取ったものを、その人へ返すのではなく、まだ会っていない誰かへ、こぼしていく。
noteで、この輪を回しているのが、LaLaLaさんの『ペイフォワードプロジェクト』です。一つのコメントから始まって、心を動かされた三人へ、応援の言葉を手渡していく。優しさが、三人、九人と、ほどけるように広がっていきます。父の三つ目の椀も、たぶん、この輪の、ずっと昔の一巡だったのでしょう。
第二回も、四篇をお渡しします。書いているものは、やはりばらばらです。古い言葉のこと、台湾の食卓のこと、島と海のこと、誰かの記憶のこと。けれど並べてみると、底に一本、細い糸が通っていました。頼んだ覚えのないものが、いつのまにか自分のものになっている。そのことを、みなさん、それぞれのやり方で書いています。
一篇目は、詞憧英明さん。「をかし」と「あはれ」という、遠い日本語を並べて、二つはもともと一つの心の動きなのだ、と説きます。世界へこちらから手を伸ばす時と、世界の方から入り込まれる時。向きが違うだけで、根は同じ。そういえば宮中の女房たちは、豆腐を「おかべ」と呼びました。白くて四角いのが、御所の白壁に似ているから。物の名を、真正面からではなく、少し斜めから、洒落て置きなおす。あの人たちは、名づけることそのものを遊んでいたのでしょう。詞憧さんの筆も、どこかその遊びに似ています。古い言葉を掌に転がして、光の当て方を変えては、ほう、と息をつく。ご本人は、この「あはれ」を一年ほど前に初めて深く感じ取った時、涙が止まらなくなったのだそうです。効率や速さが先に立つ世では、感じ取ること自体が難しくなっている感情なのかもしれない、と。読み終えて、私は麺線の椀を思い出しました。父から私へ差し出されたものと、父が誰かへ送ったもの。あれも、一つの心の、二つの向きだったのでしょう。
二篇目は、ミツコさん。台湾に嫁いだ最初の夏、義理の母が、凍らせた焼き芋を、にこにこと差し出しました。アイスのように甘いよ、と。歯も立たないほど固くて、その時は好きになれずじまい。ところが三十年近く経った今では、夏がくる度、喜んで芋を冷やしているのだそうです。教わったのではありません。時をかけて、いつのまにか、手の内側に染みていた。ミツコさんは、台湾で暮らす日本の人。私は、日本で暮らす台湾の人。ちょうど向かい合わせの窓から、互いの食卓をのぞいているようで、読みながら、何度も頬がゆるみました。よその習わしが自分のものになるのに、決心はいりません。ただ、長い時間がいる。その受け取りの遅さが、私には愛おしく思えます。
三篇目は、チェン・ダオシェンさん。四方を海に囲まれた島が、どうして長い間、海に背を向けて暮らしてきたのか、と問います。かつては浜で遊ぶほかに、勝手に船を出すことも許されなかった歳月があって、その禁が、人々のものの考え方の芯にまで、今も残っている。海の民と、陸の民。同じ島に生まれ育ちながら、私は自分がそのどちらであるかを、考えたこともありませんでした。子どものころ海といえば、ただ暑くて、砂とカニのことばかり。チェンさんの一篇で、私は生まれた島を、はじめて外から眺めた気がします。近すぎて見えずにいた土地のかたちを、遠くにいる目が、描いてくれることがあります。そういう贈りものを、私はチェンさんから受け取りました。
四篇目は、kazuhideさん。自分の記憶より、誰かの記憶を読む方が好きになってしまった、という書き出しです。見も知らぬ人の子ども時代や、忘れられない一日を読むうちに、それがいつのまにか自分の中にも残っている。ふだんは忘れているのに、どこかの家の匂いや、駅に着く電車の音——そんな小さなきっかけで、預かった誰かの記憶が、ふいに顔を出す。「読んでください」。たったそれだけの言葉が届くと、画面を送る指が、一瞬止まる。その一瞬を、この人は大事にしています。受け取った記憶は、もう自分だけのものではなく、また別の誰かへ手渡していくもの。これはもう、記憶の待用です。四人の中で、三つ目の椀を、いちばん静かに差し出している人だと思いました。
四人とも、頼んだのではないものを受け取り、それを自分の手に留めず、次へ送っています。私が北の牧場で牛と暮らし、言葉を書きとめているのも、根はきっと、同じところにあります。
湯気の立つうちに、一篇ずつ、お渡しします。
