前回補足:結局日本で最初のRPGはなんだったのか?
前回記事について、ある程度反響を想定していたが、予想以上の反響を頂き本当に驚いている。なお、安田均氏よりも直接コメントを頂戴しているが、その意図やお気持ちは十分理解していると思っている。また70年代末より活躍された氏や諸先生方の努力と活躍があったからこそ、現在日本でTRPGがプレイ出来ていることには、限りない畏敬の念を禁じ得ない。ただ相違する意見については、引き続きこのシリーズの中で主張したい。
なお、私は記事を思い付きだけで書いているのではなく、集められるだけの資料には目を通し可能な限り客観的なデータから記述しているつもりである。ご指摘された「日本現代卓上遊戯史紀聞」についても全て熟読していたし、非常に参考にもさせていただいている。
なお、今回はPC-RPGについては重要な文献を絶賛取り寄せ中のため次回送りとし、引き続き黎明期のTRPGの話である。
ロールプレイイングゲームと名乗れなかったのはホビージャパンの商標登録のせいでは?
表記のようなご指摘をいただいたが、結論でいうと違うと思う。
ホビージャパンは確かに、1982年5月(つまりタクテスク3号発売直後)に以下の通り「ロールプレイング」をゲームカテゴリで商標登録している。だが、これは客観的に見て、独占のためのものではなくいわゆる「防衛商標」だと思われる。この商標は延長を繰り返しており現在でもホビージャパンが保有しているが、その権利を主張して他社に利用取り下げ請求や仕様料を請求したことはない。

ツクダやバンダイの作品で、ロールプレイイングゲームという表現を控え目にしていたり、イメージプレイという造語を作ったのは、前回も指摘した通り、ロール・プレイという言葉が余りに日本人になじみがなかったためである。
なお、バンダイが「ウォーゲーム」を登録商標として登録したため他社がウォゲームという言葉を使えなくなり「シミュレーションゲーム」が定着したという話があり、実際バンダイのカタログにも「ウォーゲームはバンダイの登録商標です」と書かれていたりするが、現在見れる商標登記DBでは、その登録を確認できなかった(取り下げや却下された案件も閲覧できるのに)。ホビージャパンの趣意返しでバンダイにだけは「ロールプレイイングゲーム」という言葉を使わせなかったという可能性もなくはないが…
出版リストの発売日について

上記の出版リストについてもう少し詳細に説明したい。これは、日本で最初のRPGが何かを解き明かすうえで非常に重要だからである。
雑誌掲載記事
ご存じのとおり、月刊紙は記載された刊行月の前月に書店・店頭に並ぶのが日本の古くからの商習慣である(例えば6月号は、5月前半又は5月中には販売される)。ゆえ、S-Fマガジン、タクテクスについては、刊行月の前月を出版月とした。
旧シミュレイターではそのような前月出版は行われず、記載月に(もしくは遅れて?)出版されていたようなので、刊行月と同月にした。
バンダイ・スペースコブラ
スペースコブラのファンだったか?と聞かれると否としか言えない。(少し私の年齢が足りなかったのだと思う)
— 横川淳(まこと) (@fmvtowns) September 11, 2023
ただTRPGゲーマーとして見ると、あのタイミングでブームが来ていて良かったのだろうな、と。
国産TRPG第一号(TACTICS誌3号のドンキーコマンドは除く)
旧SIMULATOR誌を読む限りでは1982年発売 pic.twitter.com/kIl9UPys2o
横川淳氏の上記ポストツリーに詳細が記載されているが、非常によくまとまっている。そのとおりだろう(情報提供ありがとうございます)。
当方でも裏取りのため、旧シミュレイター誌を確認した。また、TVアニメ「スペースコブラ」は、1982年10月7日から放映が開始されており、ゲームの発売タイミングはこの直後と考えられることから、同ゲームは82年11月の発売と推定した(1982年のバンダイのリリースリストにこのタイトルが掲載されているため、どれだけ遅くなっても12月中には発売されていたものと思われる)。
ツクダ:クラッシャージョウ
「クラッシャージョウ」の映画は83年3月12日に公開されている(映画「幻魔大戦」と同日の公開日である)。ツクダのゲームの発売は、概ね公開(放映)開始の1か月程度で発売されている場合が多い(それが最も良く売れるから)こと、また旧シミュレイター4号(83年5月刊)に発売後の紹介記事があることを考えると、「クラッシャージョウ」の発売は、83年4月には発売されていたと思われる。

3月12日公開との表記が見える。
ツクダ:エンタープライズ
エンタープライズについてはあまり情報がないが、もし「スタートレック・カーンの逆襲」に合わせて発売されたとすれば、同映画の日本公開が1983年2月19日であることを考えると、同年2月または3月に発売されたと考えるべきであろう。また、クラッシャージョウ、エンタープライズの通し番号はエンタープライズのほうが若いため発売が先と考えるなら、やはり83年3月の発売と考えるのが妥当だと思う。
バンダイ:イメージプレイDOシリーズ
このシリーズについては前回にも記載の通り、シミュレイター誌3号において、バンダイ社の社内展示会が2月2日に行われたことから、ここからさほど遅くないタイミングで発売されていたものと思われる。4号では下記画像のように、既発のように扱われていることから、これも83年2月月以後4月までに、7作のうち5作品は発売になったと思っていいだろう。なお、DOシリーズのひとつ「幻魔大戦」の公開日が上記のとおり3月12日であるから、発売日もそれに近接すると考えるのが妥当だろう。

日本で最初のRPGは何か?
商業出版としては「スペースコブラ」
もしかすると、日本で最初のRPGはボードゲームではなくPCゲームだったかも知れないが、そのことについては次回以後に論説していきたい。
上記で論述した通り、日本で最初に商業出版されたRPGは、82年11月のバンダイ「スペースコブラ 最終兵器」である。このゲームは、パッケージにもマニュアルにも「ロールプレイ」と明確に記載され、ルールの体裁もRPGとして充分である。発売が82年11月だとすればこれに異論をはさむ人は多くないだろう。
なお、もしホビージャパンが「ダラス」を日本語マニュアルつきで発売していたらこちらが先になっただろうが、下記の記事以後に頂いた情報でも、日本語マニュアル付きでの販売はされていなかったようである(当時代々木のポストホビーや、札幌、梅田のキディランドでパッケージを目撃した人によると「日本語マニュアルはなかった」とのことだった)。
「ドンキーコマンド」はRPGか?
タクテクス3号に掲載された「ドンキーコマンド」というゲームは果たしてRPGだったのだろうか?これを議論するためには、RPGとは何かを定義しなければならないが、ご承知通り非常に困難であり、半ば神学論争のようになってしまうので、ここでは意見を保留したいと思う。PC-RPGと同じシステムだからとか、ロールプレイングゲームと名乗っているからとか、そういう理由でこのゲームをRPGだというのは暴論過ぎると思うが…

隣接するスクエアに移動するとダイスを振って壁の有無を作成し、部屋になったらエンカウンターチェックを行う一人用ゲーム。キャラクターを持ち越せ、繰り返しプレイできるなど、非常に良く出来ている。ちなみに同ゲームのデザイナーズノートには「ロールプレイイングゲームをなのっているのに全くそのようになっていない」とデザイナー自身が語っている
なぜバンダイから日本初の商業RPGが生まれたのか?
バンダイ創業者山科直治と中興の祖山科誠
バンダイは繊維業を営む萬代産業から独立する形で山科直治が創業し、初期は輸出用のブリキ玩具を主力としていたが、やがてキャラクターものに進出した。ただキャラクター関連玩具を子会社のポピーが受け持つようになると、そちらが急成長し非キャラクター玩具を扱う本社は後塵を拝することになる。しかし70年代後半には、過去に買収したイマイやコグレといったプラモデル事業が軌道に乗り、それが80年代初頭のガンプラブームへとつながる。
そんな中、1980年に息子の山科誠が35歳で後継者となると、会社は一気に多角化に乗り出す。これは、保守的だった父親や古参社員への反抗心と、将来の少子化を見越したものであったと言われている。誠は子会社の整理などを行い、1986年に日本の玩具メーカーとしては初めて株式公開(東証二部)を果たした。
バンダイifシリーズとイメージプレイDOシリーズ
そのようなバンダイ社内の事情から事業多角化の一環として、バンダイifシリーズは生まれたものと推察される。エポックやタカラと比較して、伝統的にバンダイはボードゲーム色が薄かった(あってもキャラクターゲーム)。その中で突然生まれたifシリーズは、Game for Adultを標榜し、1年程度で20作以上のゲームをラインナップする。また、RPG流行の兆しをみつけると、すぐにコブラやイメージプレイDOシリーズをラインナップした。これらは全て、(社長本人は意識していたか分からないが部下に任せてやらせるのも能力である)山科誠の多角化戦略の一環だと考えると極めて合点がいく。
「日本現代卓上遊戯史紀聞」の高梨俊一の言によると、「スペースコブラ」の企画はバンダイ側から持ち込まれたらしい。バンダイ社内でRPGの存在を(米国情報なのかタクテクス3号がソースなのかはともかく)当時(82年夏以前)知っていた人がいたことを高梨は指摘している。

結果的に成功しなかったが…
山科誠のインタビュー記事を見ると、彼が旧来の日本的な経営手法を超えていたことに気づかされる。立ち上げるすべての事業の成功を目指すのではなく、複数の事業を立ちあげそのうちの2,3割の大成功があればよく、ダメな事業はすぐに撤退するという考え方である。これはキャラクタービジネスでも同様で、1995年の週刊ダイヤモンドのインタビューで「成功するキャラクターはせいぜい三割」と言っている。であるから、ブームの退潮と競合激化により強みを発揮できなくなったボードゲーム市場から早々に撤退したのは賢明な判断だっただろう。
山科誠は90年代後半に「たまごっち」を大ヒットさせるものの、その急速なブーム収束による過剰在庫と、プレイディア・ピピンアットマークといったマルチメディア事業の失敗により1997年に社長の座を退く。だが(本人がそれを意識したり覚えているかは別にして)、日本で最初の商業RPGを生み出した会社の社長だったということは記憶されるべきである。
続きます
