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相模国風土記を訪ねる、秦野盆地周回

ここの所、秦野盆地をexploreしています。

その記事でも書きましたが、大山道シリーズで何度もexploreしているものだから、もう走り尽くしたと思い込んでいましたが、走り残しがありましたね。

ということで今回も、丹沢表尾根の山裾と渋沢丘陵で秦野盆地を周回したいと思います。

◆□■◇

秦野駅まで輪行、曾屋道から矢倉沢往還に繋ぎ、久し振りの善波峠です。

善波峠、ここは本当に峠らしくて良いですよね。
にしても、ここまでが結構キツかったです。朝イチから脚を使いました。

少し戻ってここ、矢倉沢往還と名古木村へと続く村道との辻から、丹沢表尾根の山裾の村々をexploreします。結論から言うと、意外とキツかったですよ。

秦野盆地、箱根外輪山越しの富士山の眺望。矢倉沢往還を越えた旅人達も見たはずです。同じ景色を見ています。

r246を潜るとそこは名古木村です。

"名古木村、古は并椚村とも称す、その唱えは同じ。"

その唱え、ですが、"なこぎ"、ではありません。"ながぬき"、です。難読地名ですね。

"北条氏割拠の頃は大藤新兵衛、同式部丞([中略]式部丞当地を領せしこと、村内玉伝寺鐘銘に見えたり。また文中新兵衛と載せたるは前と同人なり。)等知行す。"

ということで、大藤新兵衛、またの名を大藤式部丞が領主でした。

この大藤氏、大藤信基、秀信(後政信、嫡男と同じ名なので、初代政信と呼ばれた。)、政信(よってこちらは二代目政信とも)と三代続いた後北条家臣で、信基は北条氏綱の軍師、金石斉として有名、秀信も1561年の謙信小田原攻めで大功を上げ、政信も北条氏政から一字を貰うなど、重臣でした。信基の代からここを領地とし、田原城を築いています。

さて、名古木村の鎮守は、

"第六天社、御嶽社、蔵王社、以上三社を村の鎮守とす、例祭何れも七月二十日"

ですが、第六天と蔵王は御嶽社に合祀されています。

その御嶽神社

まだ8時前ですが、写真にも少し写り込んでいますが、男衆が祭りの準備をしてました。風土記では例祭は七月ですが、先週の今泉神社同様、煙草栽培が本格化する前の四月に変更になったようです。

また、神奈川県神社庁によると、

"古伝に倭建之命東征の時、大樹の下に腰を据え、大山丹沢富士を一望されたことにより御嶽社を建立されたと伝えられる。"

とあって、この辺りは本当に倭建命伝承が多いです。

先を行きます。先程、名古木村の記述にも登場した、玉伝寺です。本日2回目の上りです。

玉伝寺

"石源山と号す、曹洞宗。古、禅興寺住持大林退隠の為、当寺を起立す。その後、地頭大藤式部大輔某、中興して(按ずるに、西田原村香雲寺開基を大藤式部少輔政信という。また、北条役帳に大藤式部丞と記す。皆同人なるべし。)、東岩祥寅を開山とせり。故に、大林を開基、式部大輔を中興開基と称す。"

ということで、領主大藤氏が中興しています。名古木村の説明にあった、大藤氏の名前が彫られた鐘ですが、探しましたが見つかりませんでした。戦争の時に供出したのでしょうか。

玉伝寺への道を下って西沢を渡りますが、旧道が残っていました。

土橋ですね、渡って向こう左奥へと続いています。当時のまま。

橋を渡ったのだから次は上りです。本日3回目。折角上ったのに直ぐに下ってk70秦野清川線に合流し、寺山村に入ります。

"寺山村、北条氏割拠の頃は大藤新兵衛知行す。今米倉丹後守昌寿領分及び布施孫之丞。"

とうことで、名古木村同様、大藤氏の領地で、しかしその後、米倉氏の領地になっています。冒頭2つ目のリンク、堀郷四ヶ村のexploreで、堀山下村が米倉氏の領地でしたが、ここもそうだったのですね。

k70は行かず、熊野神社がある変形交差点で右に入ります。

歴史的農業環境閲覧システムより

赤点が熊野神社がある変形交差点です。ご覧の通り、ここを右に入ると集落があります。また、延沢の支流を遡るとポツンと一軒家もありますので、癒されに行こうと思ったのです。本日4回目の上り。

ポツンと一軒家の畑には八重桜が植えられていました。またここで、日本の国鳥、雉も見ました。狙い通り癒されましたよ。

下って円通寺の辺りからk70に復帰、二股はk701大山秦野線を行きます。こちらが坂本通り大山道です。

ここに鎮守、鹿島社があります。

鹿島神社

鹿島神社、"村の鎮守とす、祭神武甕槌大神神体三軀を安す。例祭正月六月の十日なり。"

さて、寺山村には、旧家があり、庄右衛門と言って、風土記にも説明があります。

"旧家庄右衛門、先祖を武和泉守という、三浦郡武村の住人にして三浦氏に仕えて武功あり。足柄上郡鴨沢にて戦死す。(中略)。和泉守の子源五郎は三浦氏没落の後、当村に土着して村民となり今十五代に及べり。"

別記事によれば、武和泉守の十代前が武常晴という人物で、遡ると、三浦氏当主三浦平六義村の弟、三戸十郎友澄に行き当たると言います。三戸十郎友澄については三浦を周った時にexploreしています。

さて、既述の様に、この道は坂本通り大山道です。寺山より先は未踏なので行ける所まで行ってみます。本日5回目の上り。

新東名を越えると中丸沢に向かって折角上ったのに直ぐに下って、中丸沢沿いを遡りますが、ここでナント!再び雉に遭遇しました。

桜吹雪の中を悠然と歩く雉、ズームアップしてご確認下さい。

そして、

坂本通り大山道道標、ズームアップすると、"右大山道" の彫字が見えます。

この先、坂本通り大山道は不動越を越え、鈴川沿いの坂本に出ます。

引き返し小蓑毛村です。ここは風土記に、

"小蓑毛村、大山寺別当八大坊領なり。"

とあるように、観応の時代から大山寺の別当を務めた八大坊に与えられた領地でした。よって小蓑毛村にある、

高岳寺

も、"金毛山と号す、曹洞宗。開山一峯俊栄、開基賢隆(八大坊三世[以下略])。本尊薬師。" と、八大坊三世が開基となっています。

このまま北上し、蓑毛村です。本日6回目の上り。蓑毛村ですが、

"応永七年1400六月、この地を以て大山護摩堂造営料として寄付せり。永禄の頃は南條右京亮知行す"

で、小蓑毛村同様、嘗ては大山阿夫利神社、大山寺関係の土地でした。その後、領した南條重長右京亮は、北条氏直に仕え、秀吉小田原攻め以降は、家康により、武蔵国深沢村、今の世田谷に領地を与えられました。近所です。びっくりしました。

蓑毛村は何と言っても大日堂です。冒頭リンクで行ったばかりですが再訪します。

大日堂、こちらも、大日堂境内にある御嶽神社の例大祭でした。今正にお囃子の車が境内を出る所。本日ニ社目の御嶽神社。

折り返して小蓑毛村を今度は右に東田原村へ。ここも、

"小田原北条分国の時、南条右京亮知行す。今米倉大内蔵知行なり。"

と、あるように、蓑毛村同様、南條氏の領地でした。そして鎮守は、

朝日神社、"八幡宮、村の鎮守とす、神体馬乗木像本地廬舎那仏、例祭三月四日、七月二十三日なり。"

です。

そして朝日神社を出て先へ行こうとすると、

富士山

でした。よく見えます。

しかし、東田原村は何と言ってもこれですね。

源実朝公御首塚

風土記にも記載されていて、

"村の中程に在り、塚上五輪塔立てり。承久元年、武常春、実朝の首級を当所に持ち来たり、実朝帰依の僧行勇を引導の師として埋葬し、五輪の木塔を建て印とす。その後、木塔は金剛寺境内阿弥陀堂に移しその後に今の石塔を建てしと云う。金剛寺持ち。"

金剛寺、"大聖山と号す、臨済宗。承久元年正月、将軍実朝討たれし時、武常晴という者、その首級を持ち来たり、僧退耕行勇を導師として村内に葬す。これによって当寺を草創し行勇を開山、実朝を開基とせりと言う。"
"阿弥陀堂、三尊彌陀を安す。実朝念持仏と言い伝う。"
秦野市指定重文でもあります。中尊の阿弥陀様は室町後期から江戸期ですが、脇侍は共に鎌倉前期で、風土記の、"実朝念持仏" は、信頼性があります。

寺山村で登場した旧家庄右衛門、その祖先、武常晴は、ここ東田原村で実朝の首を埋葬した人物だったのです。その後、十代を経て武和泉守の子、源五郎が、再び、この地に戻ってきて、今に続いているのです。牧野村の蒲原家もびっくりしましたが、残ってますね。こんな田舎(と言っては失礼ですが)にこそ。マイクロツーリズムです。

実朝の首塚は今回2回目ですが、武常春のことがあったので、その痕跡は無いか、と、目を凝らしました所、ありました。塚上にある常夜灯です。

向かって左の署名が、"武善右衛門" です。

消せませんね、痕跡は。

そして村の西に、今は東田原神社となっている、

道明寺、徳石山と号す、真言律宗。開基米倉丹後守昌尹は古領主なり。

があり、ここは江戸期の領主、米倉氏の痕跡となります。

先を行きます、西田原村です。

"地頭の還替検知等前村(東田原村)に同じ。"

ですから、ここも、南條氏、続いて米倉氏の領地でした。

鎮守は、

八幡神社

"村の鎮守なり、神体木像本地観音。若宮権現を相殿とす。社頭一石五斗の御朱印は天正十九年十一月賜えり。例祭八月十五日。"

と、言うことなのですが、境内掲示では、

西田原村八幡神社境内掲示

と、応永年間1394 - 1428、金閣寺造営の年 = 1397、大藤小太郎が大修理したとあります。

年代は疑問符が付きそうですが、まず、西田原村の領主は、風土記では、南條氏の後、江戸期は米倉氏でしたが、大藤氏も絡んでいそうだということです。

というのも、

香雲寺

お隣の香雲寺も、

"天文三年1534、大藤氏寺領を寄付す。その後、永禄中1558 - 1570四世宝堂の時、大藤式部少輔政信、帰依により当村に移して香雲寺と改号す。故に宝堂政信の二人を中興の開山開基と称せり。"

鐘にもその旨、彫られています。右から三行目、"大藤史部侍郎秀信" が見えます。

これを見ると、金閣寺、応永年間というのは間違いであるものの、少なくとも、1534 - 1570は、南條氏ではなく、大藤氏が西田原村の領主だったと考えられます。

先を行きます、次は羽根村です。

"北条氏割拠の頃は大藤氏の采地。(中略)。今米倉丹後守昌壽領分。"

ということですから、寺山村と同じですね。

鎮守は、

今須賀神社となっていますが、鎮守住吉社が合祀されています。"住吉社、村の鎮守とす、神体石一顆を置く。例祭十月九日。(中略)。古棟札四枚(この内永正庚の三字見えたるは七年1510か十七年1520のものなり。)。"

先程の香雲寺は、ここ羽根村から移されています。

小羽根橋を渡ってk705堀山下秦野停車場線北上、松葉沢を遡り、菩提村に入ります。

"米倉丹後守昌壽領分なり。"

羽根村、西田原村、東田原村、寺山村と同じく、米倉氏の領地でした。

ここは二ノ塔、三ノ塔、三ノ塔尾根、塔ノ岳がよく見えます。

定源寺を越え、クランクが2つ連続しますが、2つ目を過ぎるとこの風景。

足柄茶ですね、そろそろ茶摘みですね、越しの秦野盆地

この風景からも分かる通り、結構上ってきています。本日7回目です。実はこの先も上って表丹沢野外活動センターで東側の古道に折り返す予定でしたが、上記写真撮影地点から先は斜度が更に上がり、これは無理と判断し、山の神で中断しました。

菩提村坊集落の山の神

折り返して定源寺手前から松葉沢対岸の、折り返して行こうと思っていた道筋に行き、こっちのルートを上ってみますが(本日8回目)やはり、くず葉学園付近で斜度が上がり、諦めて折り返しました。

その後、新田川沿いを遡って、東円寺を訪問です。

東円寺

"菩提山と号す、宗派前(定源寺、曹洞宗)に同じ(堀山下村蔵林寺末)。"

です。蔵林寺は米倉氏菩提寺ですから、ここ菩提村が米倉氏領地であることを示していますね。

本堂隣の墓から表丹沢を望む。近いです。上ったんですね。真ん中の窪みは菩提峠と思われます。

そして振り返るとこの風景

秦野盆地一望、右の建物の上にはパラグライダー

その後、葛葉川沿いを下り、菩提村鎮守花鳥神社まで本日9回目の上りです。

花鳥神社、"三嶽社、村の鎮守とす、神体木像例祭七月十九日、村持ち" 本日3つ目の御嶽神社。ここ菩提村の葛葉川を源流まで遡ると、倭建命の足跡なる史跡があります。ここは里宮のようなものでしょうか。

ここで不思議なことが。拝殿の背後の空、珍しい形の雲が。飛行機雲が風で形が変わったのかなと思っていました。

カメラを少し煽ってその雲を構図に取り込みます。

すると、、、

おおー

その飛行機雲らしき雲から、龍が出てきました。龍神雲です。何か良いことがあるのでしょうか。

花鳥神社から下って新東名を潜り折り返して再び潜り、横野村に入って行きます。

"北条氏の頃は大藤新兵衛知行す。"

ここも大藤氏ですね。

鎮守は再訪ですが、

加羅古神社

ここから、本日10回目の上りで白泉寺の先をぐるっと回って、地味に辛かったです、秦野戸川公園の脇を進み、

水無川が作った大きな谷、秦野戸川公園の吊り橋と真正面には三ノ塔尾根の始まりの雨乞岳

堀郷四ヶ村を横切って本日11回目の上りで渋沢丘陵に上り、表丹沢を眺めて秦野駅に帰還しました。

右から、大山、二ノ塔、三ノ塔、塔ノ岳、いつ来ても良い眺め

長くなりました。

如何でしたでしょうか。

距離的には40kmもいかない程度でしたが、やはり、アップダウンでしょうか、キツかったですね。それも含め、良いコースでした。

それからここ表丹沢の山裾は、基本的に、後北条氏の時代は大藤氏、江戸期は米倉氏の支配だったと言えそうですね。大藤氏も米倉氏も言わば外様、あまり豊かではない土地を与えられたと言えましょう。

御嶽神社が多いのは修験の影響と思われます。表丹沢は、八菅修験、大山修験、日向修験の峯入り道でしたから。


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