特盛ペイ・フォワードプロジェクト-鴉の恩返し-
みなさま、お久しぶりにございます、青鴉真尾です☺️🌸
本日は、やっと構想がまとまりましたペイ・フォワードプロジェクトによるご紹介記事。遅くなってしまい、大変申し訳ございませんでした。
やまびよりさんからバトンをいただき、3名、どなたに「どのように」渡そうか温めておりました。
結論から申し上げますと、わたくしがご紹介するのは2名。韓子さんとたび.さんです。
わたくしはまだnote歴も浅く、ずっとこの場所で活動されているみなさまを、どのようにご紹介できるのか。折角ご紹介するなら、わたしにしかできない方法はないか。「作者や作品の紹介」はこれから出版課程を目指し、出版業界で生きてみようする人間なら将来的に業務になり、質も求められるのでは?しからば今から工夫して取り組んでみよう。
勝手にどんどんレベルを上げた私…笑
遅くなった理由として弁明させてくださいませ。
もしかしたら、「青鴉真尾に任せてよかった」と思っていただけるものを書きたかったのかもしれません。それは将来を見越したお話でもあり、言葉を選ぶことに重きを置く、わたくしの生き方故かもしれません。
そうしてルールの3名ご紹介が守れなかった事、お詫びいたします。
理由としては、いつもわたくしが素敵だと思う記事を書かれる方は、既にご紹介を受けていた場合が多かったためです。そこで、量より質を優先し、まだご紹介を受けておらず、ぜひ綴りたいと思ったお二人にさせていただきました。
お二人に絞れた事で、両名の過去記事も沢山読ませていただけました。
果たしてどうなった事やら。温かい目でご紹介記事をお読みいただけましたら幸いです…🌱
ご紹介はあいうえお順で参ります。
評論的な、余りに評論的な
【韓子さん×岡本太郎氏】
【導入】
はじめに、韓子さんのご紹介は分析的に文章を書く時の「私」で書かせていただく。
韓子さんの作品に出会ったきっかけは、静月さんのご紹介記事から。「ガチ文学勢」とのご紹介で、そこで紹介されていた方全ての記事を読ませていただいた。皆様面白かった。いつも面白い記事を書かれる静月さんが愛読されるのだから当然だ。(ペイ・フォワードで静月さんをご紹介したかったが、確か既にご紹介を受けていたので断念した。私の記憶違いであったら申し訳ない。)
何故私でご紹介するのか。韓子さんが私の書評、カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」を大変気に入ってくださったご様子であり、その上、実際韓子さんとのコメント欄での会話において、ご本人が「感想」より「評論」を好まれる傾向にありそうであった事。加えてエッセイで、プロの作家を目指して執筆されている事も知り、分析的に文章を書くのが得意な私が評論でご紹介するのが適切と判断した。
【テーマ】
韓子さんご本人が掲げる創作テーマは「倫理的に問題のあるもの」
この表現方法が間接的である事が特徴だ。徹底した暴力性で歪ませた倫理観。その実歪んでいるのは倫理でなく殴った拳。その拳を見つめる視点に読者が立てるよう物語を運んでゆく。
そしていくつかの小説とエッセイを読ませていただいて私が思った韓子さんの扱うテーマは「縄文人的日本人の生きづらさ」だ。これを岡本太郎氏の理論で説明する。
今回は創作大賞用に執筆された作品を中心にご紹介する。
【紹介:岡本太郎氏の理論】
始めに、日本人とはどんな民族か。大きく縄文人と弥生人に分けられる。(今回は少数民族についても言及するとテーマから逸れてしまうので、苦心ながらも省かせていただく。)
岡本太郎氏が縄文土器と弥生土器を比較し、日本文化論にまで発展させた評論がいくつかある。
その中の一つで岡本氏は縄文的なものを以下のように述べている。
「縄文式の重厚、複雑な、いやったらしい程逞しい美感が現代日本人の神経には到底たえられない、やりきれないという感じがする。」
それは縄文時代は狩猟生活であった事も関係している。全開の五感。危機的俊敏性。三次元的世界認知。
これらは確かに、マグマのようにとどまる事のない、荒ぶる感性を育成するだろう。そしてそれらは極めて野性的だ。正に、不均衡で閃き的凹凸が三次元的な縄文土器のデザインのように。
そうして現在「お淑やか」「控えめ」「思いやり」と世界的にも認知される「日本人的性分」は、弥生人的といえる。つるつるの弥生土器のように。
大陸から文化を学び、農耕が始まった事による「人との調和=生きやすさ」の社会の幕開けだからだ。
【紹介: 韓子さんの作品】
韓子さんの作品から読み取れる「縄文人的生きづらさ」とは何か。
先ず韓子さんの作品で生きづらさが表現される時、暴力と血気盛んな情念、内蔵的不浄さになる。それらは私にこの岡本太郎氏の「縄文的気質」を思わせた。何故なら、西部劇の作品を除き、登場人物は基本的に日本人であり、舞台は日本社会内で設定されている事。しかもその暴力は常に生物の範疇に収まり、機械によるものではない。これは、生き物としての暴力性と、日本人をテーマにしている。
それ故に、「人との調和=生きやすさ」になった弥生時代以降、現代にまで続くその「弥生人的日本社会」において、「縄文的気質」である暴力性、換言すれば野性や獣性で生きる生きづらさを、私は作中に発見した。
こちらの長編では多才な副主人公が「多才な中で、たった一つ見つけた夢中になれるもの、小説を書く事」で生きようと試みる。しかし、皮肉な事に他者はその「たった一つ」だけは評価しない。おどろおどろしく、読みづらい作品だからだ。
それでも副主人公は自分の創作理念を曲げない。
何故か。執筆だけは彼自身で選んだものであり、唯一の自己表現の手段だからだ。
「お前、歴史を貫くような名作を読んだことあるか?ホメロスの『イーリアス』は?日本の『古事記』は?ダンテの『新曲』は?(略)
今言ったのは単純に俺が好きな作品で、その全てに明確な共通点があるわけじゃねぇ。でもな、どの本にも強烈な熱があるんだ!倫理や規範、芸術作品へウジ虫のようにとりつきやがるくだらねぇ感性、そんなありとあらゆる束縛を焼き尽くしてなおも燦々と輝き続けるような、例え人の世が終わるとしてもバカ笑いしながらその最後を煌々と照らしてみせるような
彼の熱量の異常さが見てとれる。そして、彼こそがこれら古典作品によって価値観を焼かれた経験者だからこそ、執筆の熱が暴力的にまで沸るのだ。
ここで注目したいのは、「古典作品」だ。作中彼は、現代小説への物足りなさを主張する。
古典作品と現代小説の違いは、整備された社会で書かれた作品か否かだ。現代人はどうしても病気や戦争、狩猟といった血なまぐさいものから遠い。だから作中で副主人公が「物足りない」と主張するのは、彼が縄文的気質の強い人間だからだ。
整備された社会で生きやすい温厚な弥生人なら現代小説にも適合している訳で、このような意見にはまずならないだろう。
「ああ、そりゃわかってるよ。でも、俺は熱を大切にしたいんだ。俺自身の熱でもって読み手の心を溶かしたいんだよ。だから一生人に認められんとしても、これだけは譲れねぇ。どんなに道が険しくても、俺はぜってぇに折れねぇ。」
作品を最後まで読めば分かるが、これは唯の意地ではない。前述の通り理由があり、「自分で選んだたった一つの事」だからだ。執筆は彼にとって、自己尊厳ともいえるものだ。
また以下のエッセイにおいて韓子さんは「日本人の気質は火山性」との言及をされている。
その発想から生まれたとの掌編が以下の作品だ。
「火山的気質」故に、管理された生きやすい社会での満たされない生きづらさを綴る掌編「宇−アメノシタ」。「火山的気質」故に、自分で選んだ自分で生き抜きたいために妥協はできない長編「小説を書いてる友達」。
しかもその長編中、副主人公は一度妥協して「読者との共同作業の読みやすい作品」を執筆する。それがあの結末を迎えるのであるから、極めて合理的展開だ。投稿作品が受賞できようができまいが、最早彼にとって生理的根源でもあった執筆を一度妥協してしまったら、遅かれ早かれ同じ結果になっていただろう。
彼は自分の命を妥協したからだ。それに「火山的気質」は耐えきれなかった。つまり、沸る獣性が社会に認められず、その社会に妥協しようとしたら自分のマグマに焼き溶かされてしまった若い男の話。
正に、弥生人的社会での縄文人的生きづらさだ。そしてその社会の始まりは常に家庭であって、彼の生きづらさは生まれた時から始まっていたのだ。
家庭での生きづらはそれぞれ細かな分類があるだろう。しかし、縄文人的基質の強い人間は、結局、整備された弥生人的現代日本社会に出た時に生きづらさを覚える構造は共通する。
従ってこれらは、個々の倫理的歪みを超えて、「火山的気質」が「整備された現代社会」から溢れる所まで訴えかける。そこが大きな論理的歪みとも言えるだろう。
つまり、韓子さんの描く生きづらさは、「繊細だから生きづらい」のではない。それは弥生人的悩みだ。「狩猟民族である縄文人の血が、整備された弥生人型社会の枠に入れられる生きづらさ」だ。
だから、読み手を選ぶ。それは岡本太郎氏が縄文土器を「縄文式の重厚、複雑な、いやったらしい程逞しい美感が現代日本人の神経には到底たえられない、やりきれないという感じがする。」と表現したように。多くの現代日本人に韓子さんの作品は過激に見えるかもしれない。
しかし、私は主張したい、彼の作品は私達の生きづらさの一つであると。何故なら私達は縄文人の血も引いているから。もう一歩理論を進めるなら、人間はどの民族も狩猟民族から始まったばかりか、進化の過程で人類になるまでの間も、狩の構造に生きていた。人間が生物である以上、この性質からは逃れられない。
むしろ養畜により自らの命を危機にさらさず消費するだけになった「綺麗な現代」は、命の温度から遠のき、機械的暴力の時代になっている。正に長編「小説を書いてる友達」の副主人公の父親のように。(母親はこの枠組みの外にいる無言の観客である人形だが)
その事を考えると、私は、この「火山的気質」は忌むべきものでなく、人間が人間らしくあるための雑味であるように思う。
したがって、私が韓子さんのテーマだと考察した「火山的気質故の生きづらさ」は現代的テーマであり、人類共通でもある。
そうして、暴力的描写や内蔵的不浄さは、単なる飾りや趣味でなく、表現に於ける必然となる。狩の世界のシステムだからだ。
だから私は韓子さんの作品をご紹介したい。整備された現代に於いて、読み手自身が気づかなかった野生的生きづらさを見つけられる可能性があるからだ。
そうして、もう少し時代が進んで、更に整備された社会になってしまった時、このテーマで綴られた作品がどのような立ち位置になるのか非常に興味深い。その点で私は先程この「火山的気質の生きづらさ」は現代的なテーマだと述べた。
「生きづらさ」の種類の解剖。私自身も気にした事がなかった。ここは創作の可能性があるテーマかもしれない。
【その他作品とテーマの関係】
他の作品も基盤になっているのは、この「火山的気質」である獣性だ。
掌編で言えば、所有のために女を殺そうとする男の話、肉を食べると野蛮になるからと子供に肉を与えない母親の話、容姿端麗品行方正な同級生の残虐な部分を「自分だけの秘密」と愛する女だがそこに巻き込まれたら自分は被害者になるから他の女を愛し続けるよう屈折した監視をする女。
最近の小説「英雄」では周りの人間の剥き出しの卑屈な暴力性を描く。
私が最も好きな「湖面に映る君」を挙げれば、獣性が掃除された綺麗な現代社会では、死の実感さえ夢のように乏しい。だから死を願う主人公が死ぬ方法を思案する時、その描写は夢を追うように美しくも血生臭い。物語が展開する固定場面の美しい月下でさえ、常に生物が生きるために他の命を蝕む描写がある。
皮肉な事に、汚いと排除された獣性から命を見出す作品。生は獣性と切り離せないのだ。
このように出発点は全て「火山的気質」という獣性であっても、視点を変えたり、関係を変える事で、各作品毎に炙り出すテーマが変わっている。
例えば「英雄」では獣性を逆手に取って、抑止力や憲法9条を、読み手によっては解釈できるだろう。
また、ご紹介した長編「小説を書いてる友達」でも、大人しい主人公「僕」が副主人公の友人の「火山的気質」に触発される。(「感化」ではない。主人公が自らの意思で行動し、壁に当たり、選択した結果だからだ。例え無謀であっても。そこの展開が見事である。)
この長編だけ読むと、「友人のために」という情動的動機が強いが、他作品も併せて読むと「私達の持つ獣性の触発」とも読める。
従ってこの「火山的気質」という人類の獣性、そのテーマとしての幅の広さは十分にある事がこれまでの作品から読み取れるので、これからも大いに変容いただきたいテーマに思う。
韓子さんご自身がこの「火山的気質故の生きづらさ」をどれほど意識されていたかぜひ伺ってみたい所だ。また、今回私が勝手ながら思った事は、「火山的気質の生きづらさ」から発展させて、「この整備された社会で、どこまで人間は人間であれるのか。この社会にあなたは生きられるか。」という問いかけでの創作も可能ではないか、という事だ。
韓子さんさえご興味があれば、ぜひ綴っていただきたく思う。それは「火山的気質」を持った人間でしか書けないものだから。
【発展: 獣性と近代文学】
最後に余談だが、「縄文人的野性の生きづらさ」これは私の好む近代文学にも似たものを思う。
当時欧州列強が攻め入る不安から、西洋化という「近代化」を日本は進めた。その時文壇というものも生まれ、そこでは、「自分達はどうするべきか」「日本とは何か」「伝統とは何か」「新しいモラルとは」様々な意見が生まれ、論争が起きた。
だから、近代文学は荒々しい命そのもので綴られており、決して上品でないものも多い。
狩猟民族の「火山的荒々しい」縄文人が、大陸から知恵を学び「丸くなる」弥生人へ疑問を呈する姿を、今から100年前の近代に私達の先祖は繰り返していたのかもしれない。
もしかしたら、そう遠くない未来に、この社会への投石がまた起きるかもしれない。それは、昭和に学生運動が盛んであった事を思う。いずれも正しさの話ではなく。
日本社会は時折、縄文人の血によって地殻変動を起こすと言えるかもしれない。活火山の多いこの国らしい様式だ。
そうして私は、その荒ぶった感性をも愛する。この評論モードの「私」は正しくそうだ。坂口安吾、織田作之助、太宰治、梶井基次郎、夢野久作。詩人なら北原白秋、室生犀星、三好達治。歌人の与謝野晶子や石川啄木も負けていない。
初めて韓子さんのエッセイを拝読した時は、坂口安吾氏を連想させた。安吾氏は「縄文人的日本人」の代表だろう。
そこから韓子さんの過去作品も遡らせていただくと、根源的テーマは「火山的気質故の生きづらさ」だと気づき、坂口安吾氏の「『正しく』生きる否定」より岡本太郎氏の方が深くご紹介できると思い、同氏と併せてご紹介させていただいた。
【最後に】
皆様は縄文人的だろうか、弥生人的だろうか。
「私」は思い切り縄文人的だと思う。だがしかし、次にご紹介させていただく、たび.さんを好む感覚は弥生人的「わたし」だ。
私/わたしがよくテーマに扱う、「日本人が割り切らずに抱えて生きる」事、それは縄文人と弥生人の対照的な血を引く事から始まっているのかもしれない。
そこに今回気づかせていただけた事、この場を借りて韓子さんに感謝をお伝えしたい。
【余談】
因みにタイトル「評論的な、余りに評論的な」はニーチェ氏でなく芥川龍之介氏からお借りした。芥川氏は「文芸鑑賞講座」の中、ルノワールの言葉から自分の主張を補強する。今回私が岡本太郎氏の理論を併せてご紹介した方式は、これを拡大したものだ。
なので本当は「note鑑賞講座」と題したかったが、内容が評論である事、そして「文芸鑑賞講座」の主張は「文芸的な、余りに文芸的な」に発展するものがあるので誤用にあたるものでもないだろう。タイトルは一目見て内容を伝えなければならないので、お許し願いたい。
従って、タイトルは構造的に必要なオマージュであった事も明記しておく。
言葉も知性も使われなければ死んでしまう。だから私は、自分の中に落とし込んだ近代文学者の皆様の言葉や論法をわざわざ現代で紡ぎ直す。
何故なら、先人から受け継ぐ中に発展の鍵はあると私は考えているからだ。そうしてそれは、正しく芥川龍之介氏が「文芸鑑賞講座」に於いて前述の通りルノワールの言葉を引用して主張した意見でもある。
先人の踏襲。真のそれは化石の復活でなく、時代による変奏曲である。
この変奏曲を人は進化と呼ぶ。
人間獣。
これは芥川氏による造語だが、正に今回私が取り上げた「人間の獣性」は、同氏から受け継いだテーマかもしれない。
白雪姫の春
【たび.さん×久生十蘭氏】
たび.さんは詩人モードのわたくしでご紹介させていただきます。いつもたび.さんのお話を読む時は「わたし/わたくし」ですから。
【導入】
たび.さんとの交流の切掛は、恐らく鴉庭さんの作品のコメント欄でした。わたくしが「素敵だな」と思った鴉庭さんの作品のコメントで、一際涼しい分析とお優しい雰囲気に興味をそそられたのを覚えております。
そこから「この方はどんな作品を書かれるのか」と興味を持ち、わたくしがたび.さんの作品にコメントを置きながら読ませていただいた経緯に思います。
本日は「たび.さんといえば」とも言える掌編「風文」を、久生十蘭「白雪姫」と重ねたご紹介を中心に、わたくしの好きなたび.さんの他作品3つと併せてご紹介いたします。
【「風文」とエッセイ「明日はおまえ、死ぬる身じゃな」のこと】
「風文」は雪山で遭難した人の魂のお話。
元はネット上の噂だったものを、たび.さんがアレンジされたもの。山から帰れなくなってしまった人の最後の声が、届けたかった人に届くお話。
ただの美談で終わらせたくないのです。何故ならわたくしがこちらの作品に出会う前、以下のエッセイを読み、たび.さんが消防隊として実際に、様々な災害現場に出動されていた事を教えていただいていたからです。
わたしは作品を読む時、大切にしている事があります。作者の命の天秤です。
どんなものに命を思うのか。何に心を痛め、どんな経験があり、どのように生き抜いてきたのか。それをご自身がどう思っているのか。
それらが現れるのがエッセイに思います。
エッセイとは、日本では「随筆」と近しく思われますが、フランスでは「批評」の親戚です。長くフランス文学を愛読しているわたくしはどうにもその傾向が強く、エッセイを「日記」や「感想」でなく、「思考実験場」「倫理の解体現場」として扱います。
ですから、他の方のエッセイを読ませていただく事は、「作者の価値観」を見つめさせていただく大切な時間であり、エッセイとは創作作品への理解も深めるために欠かせない、たった一本の橋なのです。
わたくしはエッセイを読む時、綴った方の命を思うのです。
こうしてたび.さんの場合も、先ずエッセイをいくつか読ませていただきました。その一つ「明日はおまえ、死ぬる身じゃな」、本当に抱えきれないものであること……。わたくしの胸に今でも残っております。
こちらのエッセイを読んだかどうかで、先程の「風文」の印象は大きく変わると思います。「救えた命と救えなかった命の感触を、ご自身の手で知っておられる方」による作品だと分かるからです。
これは一語一語の重みが違います。ぜひ「明日はおまえ、死ぬる身じゃな」をお読みになった上で「風文」を読んでいただきたいのです。
【久生十蘭のこと】
ここで久生十蘭「白雪姫」に話題を移します。この作品も雪山で遭難した人のお話。わたくしがたび.さんの「風文」を読んだ時に、どことなく近しいものを感じておりました。それを今回纏めてみたく思います。
舞台は1928年のフランス。若い日本人画家とフランス人モデルの新婚夫婦が旅行に行くも、楽しみのために登った雪山で遭難してしまうお話。
そうして妻ハナはクレバスに飲まれて亡くなってしまう。
お話はここからが本題なのです。実はこのフランス人モデルの奥様、性格に難ありなのです。それが旅行描写中でも露見しますが、物語後半の裁判で明確になり、主人公の日本人画家に不利かと思われる裁判から物語が加速します。
そしてわたくしがご紹介したいのは、この物語の核、「人間性とは何か」。裁判のシーンで検事からきつく問われ、主人公はこう述べます
「それで、今はどうなんだね。手のかかるやつが死んでくれて、やれやれと思っているんじゃないのか」
「ひどい女でしたが、善も悪もひっくるめて、それが人間というものなので、死んでくれてよかったなどとは、いちども思ったことはありません。それどころか、ハナに出逢わなかったら、人間の玄妙さというものを、感じることがなくすんでいたろうと思います」
【「風文」と「白雪姫」】
たび.さんの「明日はおまえ、死ぬる身じゃな」と「風文」を読ませていただいた後、久生十蘭「白雪姫」のテーマは「人間性」だと思っていたものが少し角度を変えました。「心の救助」です。
聖書に、「神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ」というフレーズがでてきます。この言葉は未だにわたくしの中で答えが出ない大きな問の一つではありますが、救助も正しくそうなのではないでしょうか。
善人か悪人か、そんな事を問う時間もなければ場面でもない。だからこそ、災害の理不尽さが顕になる。
わたしたちの心の狭さと弱さと傲りも。
正しい正しくない、間に合う間に合わない、の物差しで測れないものがある。
正しくないと分かって尚、間に合わないと分かって尚。そんな判断をわたしたちは緊急事態と呼ぶ事がある。
そうしてその時、「死んでほしくない」と思うのかもしれない。
この「死んでほしくない」の正体が「人間の玄妙さ」であり、ハナ自身が持つものだけでなく、ハナを通して主人公自身が感じたものなのでしょう。だから主人公はハナを憎んで尚、愛した。この矛盾が「人間の玄妙さ」です。
そして実は、ハナはクレバスに落ちる前、ある事をします。(それも引用したセリフに関係してくる大切なものですので、よろしければ皆様の手で紐解いてみてくださいませ。40ページ程の短い作品で、青空文庫でも読めます。)
わたくしはその行為で、性善説を主張したい訳ではありません。それは筆者が、「善も悪もひっくるめて、それが人間」と書いたように。
善も悪もひっくるめて存在する人間。その人間が緊急事態という善悪を超えた状況に立った時、ただの素になる。
素。それは、たび.さんの「風文」に於いて生還できなかった人間の最後の心を憐れんで、大切な人に届ける神様を思わせました。
「風文」で登山者は、たった一人で亡くなってしまいます。
どこにも、誰にも、言伝さえできずに冷えていった身体。
魂だけになってしまう前の最後の声、ひとひら。
それは善でも悪でもなく、ただの素であると。
恥ずかしさも、見栄も、気取りも何にもなくなって、ただの音になる。
音だけになったあなたが帰る場所は、大切な人の心であった。
その道案内を神様がお力添えくださる。
大切な人の心音になるためになら。
素だけになった人間を憐れんだ神様。それは久生十蘭「白雪姫」に語られる愛と人間の妙を憐れむ姿を想像させるのです。
普段憎まれ口を叩いたり、素直になるのが恥ずかしい人間。そんな人間が最期には素直になる事への同情、そんなありふれた話ではありません。
そうして最後に、「風文」のセリフから。
「ごめん、春には帰る」
「白雪姫」のラスト、ハナが氷河の流れに運ばれ地上に現れる時期を予想して、主人公は遭難した場所に山小屋を建て、計算の目処にします。
ハナが、天然の氷室に包蔵されて幻想的な旅行をはじめたのは、一九二八年、昭和三年の八月の末のことだったから、二十二年後というと、昭和二十五年のことである。
勿論、ハナの遺体が綺麗なままである保証も、見つかる確証もありません。それでも22年、異邦人であっても彼は、戦下のフランスで名前を変えたりしながら待ち続けました。まるでハナだけの救助者のように。
「風文」で、雪解けの春には帰ると伝えた遭難者の声は「白雪姫」のハナの氷河の旅と重なります。
届くか分からない、でも。
会えるか分からない、でも。
どんなに時間が掛かっても、
最期に思ったのはあなたでした。
ハナは22年の歳月を経てどうなったのか。
「風文」の遭難者は音だけになってどうなったのか。
ここは皆様ご自身で体験いただきたいものですので触れません。
ですが、帰る場所がある事、それは実際的なものでなく心の事。この両作品に共通するテーマであることは間違いありません。
たとえ生きて帰れなくても、帰りたいと思える居場所がある事。安心してほしい人がいる事。探しに来てくれる人がいる事。
救助とは何か。他者が何もなくなった時、迎えに行ける事かもしれません。
その救助の厳しさと活動の矛盾に身を置かれていたたび.さんだからこそ、人間には限りがある事を誰よりもご存知でいらっしゃる。
だからこそ、わたくしには雪山で遭難した人の声を届ける雪様は、現場で活動する救助隊の皆様のお心のように思われるのです。
誰よりも人間の弱さを知っている。だからこそ、無念や善悪を超えて届いてほしいものがある、と願うのではないかと。
人間とは何か、愛とは何か。いえ、同情と憐れみの境目はどこか。
同情とは、相手と自分の境目を失い、共倒れになる錯乱状態。救助は同情の上では成り立ちません。
憐れみとは、「できないかもしれない」と弱さを知った上での願い。その行動なのかもしれません。
「風文」も「白雪姫」も、心の救助を扱っています。神様によるものか、人間によるものか。
それは憐れみという静かで健康な愛であり、雪山に命を終えた人が作者の手の温度によって春になったり、凍てつく氷の姫になる。
同じ題材を扱っても、作者の人生や届けたいもので世界は変わるのです。
そうして「白雪姫」のハナも、救助者として命の重さを知るたび.さんの温かい掌で、ようやく花びらになる想像をわたしはするのです。
100年前の白雪姫は、作中の22年よりずっと長い時間、旅をしていたのかもしれません。
たび.さん、素敵な雪解けをありがとうございます。
【他作品ご紹介】
このような経緯があり、わたくしはたび.さんにとても温かいイメージを持っております。そうしてその春の温かさは、他の作品にも咲いております。
こちらは最近も続く連載的短編小説。一話完結との設定ですが、続けて読んだ方が味わい深いものがあります。
主人公2人は、「言わない」という事で守られるものがある事を知っていて、そのため物語は大変静かで、余韻に温められています。また、大学生と高校生らしい初々しさが、かわいらしいのです。
特にサトリちゃんは不思議な力を持っている様子が初期から見受けられます。それ故の彼女の神秘的な雰囲気がナオト君との交流で、人間的恐怖や焦りで揺れるようになります。それは、他者と関わる意味や温かさを考えさせてくれます。
喧騒から離れた時間に浸れる、静かに温かい作品です。
「言わない」という事で守られるものがある事。
それは経験を積んだ人にしか分からないものであり、それがごく自然に綴れるたび.さん。
本当に厳しい世界で生きてらっしゃったのだろうと、その厳しさ中で尚、大切にしたいものを忘れたくない温かいお心があったから、「言わない事で守る」という選択に至る。
このシリーズを読む度に思いを馳せております。
エッセイ「鬼と、かきたらず」で、消防隊時代の上司による報告書記入指導が、ご自身の文章の余白を生んでいるのではないかと分析されておりました。
余計なものは一切書かない。書き落としたら伝わらないものは落とさせない。何度も現場に通い、日付が変わる事も珍しくないご様子でした。
確かにその報告書の文章は情報として、完璧です。ですが、それは報告書であって文芸という人間の心に触れるものではありません。例え情報が完璧な文章を書けるからといって、文芸を草せるとは限りません。
ですから、やはりわたくしは思うのです。
厳しい世界にあって尚、守りたい大切なものがあったたび.さんのお心を。その厳しい冬にも耐え抜いた、優しい春のお心を。
それは沢山の読者に愛されてるたび.さんの作品が告げています。
最後に変化球を。
たび.さんの掌編は、紫陽花のお話や、山奥の郵便局のお話、ませませのお話など、サトリちゃんシリーズに通じるものがある、温かい余韻が特徴的です。
ですが、たび.さんはネタ方面もお得意です。
創作に於いて、人を怖がらせる事と笑わせる事が難しいと聞きます。価値観や倫理観に拠るものが大きいからです。
たび.さんのコメディ回は安心して読めます。いくつか読ませていただきましたが、ブラックジョークでありながらも人を傷つけて笑いを取るものではないからです。むしろ「普段言えないあるある」から生まれたような、誰しも一度は思ったことがある「言えないけど言いたい」をテーマにしたような。
たび.さんのお笑い回の序盤は、前述のサトリちゃんシリーズ等と同じで文芸系統の色が強いです。なので読者はお笑い回だとは認識できずに読み進める事になるのですが、そこが笑いのポイントなのです。
それまで積み上げた設定や物語の展開、描写が、要のフレーズやモチーフ一つで笑いの方面へ舵をきる。そのオセロの駒をひっくり返えすような転換は見事です。
そして最後に「言えないこと」が攻撃でなく笑いになる。序盤から中盤にかけての丁寧な描写ありきなのです。
「人を傷つけない事」と「自分を抑える事」は多くの場合、一つのシーソーの上に対峙します。ですが、たび.さんのコメディ回を読むと、他の可能性も見えてくるのです。
笑いの方向に飛ばして「一本取られた」と思わせる事。これはかなり知性を求められる事ですし、普段からそうできる人は中々いないと思います。頭が疲れてしまうからです。
でもだからこそ、見事だなと思い、わたしたちはたび.さんに一本取られて笑うのでしょう。
なんだかたび.さんのお笑い回を読むと、面白いと思うと同時に、そんな大人の余裕も感じて視野が広がる気がするのです。
厳しい世界にいらっしゃったからこそ、そして現在も整備士という体力勝負の世界にいらっしゃるからこそ、健康な笑いがどれだけ周囲の人間に大切なものかもご存知なのかもしれない、と思っております。
笑う門には福来たる。いつも温かい作品を紡がれるたび.さんに、春を願います。
以上をもちまして、わたくし青鴉真尾によるペイ・フォワードプロジェクトのご紹介とさせていただきます。
韓子さんとたび.さんの魅力をお伝えできたでしょうか……。書かせていただいた私/わたくしの大暴走でない事を願います…笑
評論的私と、詩人のわたくし。青鴉と真尾。
このあまりに離れた特性を上手く創作に繋げられればと思うこの頃です。
ですが、あまりに質感の違いが激しいので、読者の皆様を驚かせないか心配していたり…笑
もしよろしければコメント欄にて、対比のご感想をいただけましたら嬉しい限りです🙇🌱
そうして今回何より、ペイ・フォワードプロジェクトのバトンを渡してくださったやまびよりさんと、受け取ってくださった、たび.さん、韓子さんに改めて感謝いたします。
--
近頃、落ち着いて言葉を掬い上げる時間を中々持てず、創作活動ができずにおりました。何と申しましょうか、余白の時間。
「時計では刻めない時間」とは谷川俊太郎さんの表現ですが、正しく。
わたくしにとって「現実逃避」とも違う文芸の時間、芸術の時間。真理を求める時間なのかとこの頃思いました。
だからこそ、ぞんざいに扱いたくない。
わたしの心がきちんと方位磁針を持っていないと、例え好きな芸術でも迷子になってしまう。
それ程芸術とは、わたくしにとって大きな森のようです。
そうしてふとこの森に戻ってきた時、やはりそれらは美しく、noteで活動されるみなさまの作品もわたくしに喜びをもたらしてくださいました。
(こちらの記事を執筆するために時間を使っておりましたので、まだいつも読ませていただいている皆さま全員を回れておりません。これから大切に巡らさせていただきます☺️💐)
とても素敵な小道を見つけたものです。note。
ペイ・フォワードプロジェクトによってその感謝と、好きなnote作家さんと近代文学について真剣に綴れた事、嬉しく思いました。
草が茂って道を隠さぬよう、わたしはわたしの足取りで、みなさまの風景に出会えるこの道に、これからも少しずつ通わせていただきたいものです。
わたしはここでどんな温度になれるのか。
ゆっくり歩き耕してまいりたい所存です。
今日もきれいになりましょう🍀
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