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エッセイ『パルプ・フィクション』 前編:掌編小説の極意

映画『パルプフィクション』に関する記事だと思ったそこのアナタ…。


残念でしたー!タランティーノは今回のエッセイには何の関係もありませーん!
それでもいいよって方、例えるならめちゃくちゃ可愛い女の子がいて、声を掛けて良い雰囲気になって、それじゃあそろそろいいよね?ということになってホテルに入って女の子の服をひん剥いたその瞬間「残念〜男の子でした⭐︎」って言われても「私は一向にかまわんッッ!」と言えるような方だけ読んでいってくださいな。

→→→はて本題は?→→→


タイトルを見て誤解してしまった方、本当に申し訳ない。こんなのどう考えても映画の方だと思うに決まってる。それでもわざわざ「パルプフィクション」という言葉を使ったのには理由がある。

「パルプ」とは何のことか。Wikipediaの記事によれば「主に製紙に用いるために分離した食物繊維」のことを指すらしい。しかし私のような100%文系人間がこんなところで長々と食物繊維についての記事をだらだらと書くわけないことは皆さんもお分かりであろう。もしそんなことをやり始めたら住所を教えるから即刻うちに来て私の首を絞めて殺してほしい。この世の終わりみたいな事態だ、そんなつまらないことをやり始めるなんて…。考えたくもない…。

ならばパルプとは他に何を意味するか。「低質な紙を使用した安価な大衆向けの雑誌の総称」である。これもWikipediaに記事があるので、死ぬほど暇すぎて今にも発狂しそうな人がいたら是非検索してみてほしい。まあ、死ぬほど退屈な記事ではあるが。いわゆるパルプマガジンというものに関しては安価なビニ本を想像してもらうのがてっとり早い。ただ日本のビニ本といえば大衆漫画の傑作を集めて低質な紙に綴じたものであるのに対し、海外の場合は紙の質だけでなく取り上げられる話も低レベルでくだらないものがほとんどである。早い話が三文小説のスクラップブックだ。タランティーノの場合はパルプマガジンの「くだらない」という部分に着目し、自身の脚本にこれ以上ないくらいの自信があったにも関わらず自嘲的に「パルプフィクション(くだらない話)」なんてタイトルをつけた。そこがかっこいいのだが、私が本エッセイで取り上げるのは自作小説集、つまり本当の「パルプ」である。だからタランティーノ作品を見る時みたいに肩の力を張らず、チラ裏のくだらない話を暇つぶしで読むくらいの感覚で読んでほしい。退屈はさせない。くだらない話なりに楽しめるよう工夫して編まれたのが「パルプマガジン」というものなのだから。

さて本題に入ろう。

noteを始めて以来私は1週間に1回の頻度で短編小説やらおっぱいとかいうアホなエッセイを書いてきたが、数週間前から掌編小説や連載小説を高頻度で投稿し始めた。この突然の変化に驚いた方もたくさんいらっしゃることであろう。なんなら突然すぎて記事の存在に気づかなかった方もいらっしゃると思われる。かくいう私も驚いている。あれだけぐうたらだった男がまさかそんなことをやり始めるとは思ってもみなかった。これにはとある理由があるのだが、連載小説に関しては後編でまた解説することにして、まずは掌編小説の連続投稿について語っていこうと思う。

なぜ掌編小説を書き始めたか。それにはとある方からのこんな依頼が関係している。

「自主制作の雑誌に載せたいので、1200字程度の文章を書いてもらえませんか?」

こんなこと言われたら100人中100人が「あへぇええ書かせて頂きますぅ」というに決まってる。「書きますよ(キリッ)」とかじゃないからな?「あへええ」は必須だ。みんなカッコつけてるけど裏ではちゃんとそう言ってるんだぞ?恥じなくていいんだ。とそんなことはどうでもよくて、実際自分の書いた物が誰かの役に立つのならこれほど喜ばしいこともないだろう。だから私は二つ返事で了承した。そしてすぐに後悔した。

俺、1200字なんて短い文書いたことねぇ…。

いやほんとに、そんな短い文章書いたことない。一番短くても2000字だ、それ以上短い作品なんて考えられない。そんな短い文章で世界観を表現できるわけがない。だから話を受けて早々だったけれど、そんな不可能なことを依頼するのはやめてくださいねと言って断ろうと私は思った。しかしそれも失礼な話なので、まあそんなことできる人いるわけないだろと思いつつもフォロワーさん達の作品を読み直してどんなものを書いてるのか確認してみることにした。そうしたらアンタ、皆さん1000字程度でガッツリ自分の世界を表現してみせてるじゃないですか。どの作品も恐ろしいくらい密度が濃いのに、字数が尋常じゃなく少ない。人によっては1000字を切ってたりする。フォロワー半端ないって!1000字切ってるんよ?そんなんできんならハナから言っといてや!
それだけでなく、人によっては毎日投稿していらっしゃる。どういうこと?なんでそんなにクオリティ高い作品を毎日投稿できんの?本当に同じ人間なの?大丈夫?頭3つ付いてたりしない?実はこの世界の創造主だったりしない??

そんなわけで改めてフォロワーさん達の質の高さに驚かされたわけだが、そうなるとフォローしてもらってる自分が情けなくなってくるのは自明だ。自分よりレベルの低い人間を、この聖人みたいな人たちはフォローしてくれているのか…。そう思ったらだんだん申し訳なくなってきて、本当にこのままでいいのかと思い始めた。ええいままよ、それならば作品の締め切りは2ヶ月後、同じ人間だ、私だってダイヤモンドフォースだ、やればできる、できる、そう、できるのだ。というわけで提出する作品を仕上げるための練習として、私も超人フォロワーさんに倣い掌編小説を書いてみることにした。ただ僕はあくまでも普通の人間なので、2日から3日に1作品、というペースで書いていくことに決めた。

そうして生まれた記念すべき第一作目が、『うしろ姿』だ。

小説を執筆する際、私は主題と大まかな構成を決めたらあとは筆の赴くままに書き続けて後々修正していくスタイルを採用している。これは物語に緊張感を持たせたり登場人物を生き生きと描いたりすることに向いている方法で、長めの小説がメインだったそれまでは特に疑問を持つこともなくこのスタイルで書き続けてきたのだが、短い文章で世界を表現するとなると感性に任せた書き方ではすぐに文字数オーバーになってしまうことに気づき、最初に構成をガッチリ決めるスタイルへシフトすることにした。次に、あまりに深い世界観を築き上げてしまうと全てを描ききれず中途半端に終わってしまうだろうと判断して日常生活を題材とすることに決めた。それからエドガーアランポーやフレドリックブラウン、フラナリーオコナーといった短編の名手を読み直し、短い文章の中で読者に緊張感を持ってもらうにはサイコスリラー的要素が不可欠だということを学び、登場人物をサイコパスにすることに決めた。あとはストーカーソングを聴いたり、BLを読む女性達の心理についてXとかで情報を集めたり、俺は女だ俺は女だ俺は女だ私は女よと自己暗示をかけまくったりしてようやくプロットと主人公が出来上がった。ここまでが本っ当に長かった。中華料理とか作ってる気分だった。青椒肉絲の肉に卵白とか揉み込んで片栗粉で蓋をしていく地道な作業みたいな感じ。いや掌編小説書いてる人たちすげぇ、こんなん毎日やってんのかと改めて驚かされた。

さてと、ここまで決まったなら書き出しちまえば楽なもんだろ、とこの時の私は鷹を括ってたのだが、そんなことは全然なかった。むしろ書き出しは一番苦労したと言っても過言ではない。なぜなら私はとある勘違いをしていたからだ。

「短い文章であれば詩文が適している」という勘違い、これが地獄の始まりとなった。

いやまあ実際にそうなのかもしれないが、詩のなんたるかを知らない私がこんな考えを持ってしまったからにはさあ大変、まったくうまくいかなくて2時間くらい堂々めぐりすることになった。マジでうまくいかなすぎて泣きそうになった。というのも、私は詩文に関して「韻を伴った文章」とか「響きの良い言葉を並べた文章」という浅はかな印象しか持ち合わせていなかったからだ。だから冒頭に、


私だけが、知っている。

あなたのうなじに潜む影。



という、声に出した時の響きのみを意識した文章を考えなしに配置してしまった。しばらくたってから違和感に気付き何度か書き直したのだが、いくら言葉を変えてもうまくいかなかった。どれだけ単語を選んで配置しても、常に韻を踏み続ける日本語ラップを聴いている時のような、いわゆるキングギドラを聴いている時のような小っ恥ずかしさを感じた。詩文とはそういうものなんだと自分に言い聞かせても無駄だった。一度感じた違和感を拭い去ることは困難だった。段々と、この文章を見ているだけで吐き気を催すようになってきた。こりゃいかん、どうにかしないといけない、助けて皆さぁぁぁぁん、ということでまたまたフォロワーさんのお力をお借りすることにした。何人か頭の中に思い浮かべたのだが、最終的に一番参考にすべきだと思ったのが、短文の名手である雨苑さんだった。あのお方はどんな文章を書いていたっけ、韻とか踏んでたんだっけ、対句とかやっぱ意識してんのかなーとか思いながら読み直し、気づいてしまった。韻なんか全然踏んでないってことに。むしろ言葉の印象や単語の組み合わせの妙で詩的な雰囲気を醸し出していたってことに。下手に漢詩や和歌みたいに語感や対句を意識するよりは、散文を活用して簡潔かつ自由に書いた方が余程詩文っぽくなることを雨苑さんの作品群から教えてもらい、私はようやくこの袋小路から抜け出すことができた。ありがたやありがたや…。

そして書き直し、出来上がったのが、


私だけが知ってる秘密。

あなたのうなじに潜む影。

私だけが知っている秘密。

襟足から仄見える、ちっちゃなかわいいあなたのほくろ。



という冒頭の文章だ。
対句的な表現は残ってしまったが、脱却しようとする意志は感じられる。
まあ最終的に、


ねえあなた、いつまでもそうしていてね。

お願いだから、ずっと他の女を愛し続けていて。


と、かなり自由で簡潔な表現に至っているから及第点といったところだろうか。
文字数も1280字と誤差の範囲内で、時間はかかったものの掌編処女作としては満足のいく仕上がりとなった。


なんだぁ、時間はかかったけど俺にもできないことはないじゃんか。これならまた同じやり方で書けそうだな。こう思った私はすぐに次の作品の構想を練り始めた。小説を高頻度で投稿するというのはネタを常に探し続けるということ。これがなかなかに大変なんだろうと考えていたのだが、ビーチボーイズの鬱アルバム『スマイリースマイル』を聴いたおかげですぐに次のプロットを思いついた。一作目のように事前にしっかり構成を考え、サイコパス要素を混ぜ込み、読みやすさを意識して言葉を選んでいき、俺はクソガキ俺はクソガキと自己暗示をかけまくり、野菜大好きな子供やDV夫を激しく恨む女性の化身となって書き進めていく…。『ベジタブル』というカニバル小説は、こうして出来上がった。

うーん、なかなかいい出来だな。話のテンポが良いし、狂気を覗かせる中盤の展開がアクセントになっていて飽きが来ない。子供の表現に関しても申し分ないと言える。文章の合間合間から彼の天真爛漫さが滲み出てくるようだ。それにしてもこの狂信的な母親の描き方はどうだ、私がサイコ短編に求めていた人物像そのものじゃないか、これは自画自賛してしまうような作品だなぁ。さあて、そしたら文字数はどうだろうなー?


2439字


ぜんっぜんダメじゃねぇか!!!!

何が1200字だよ、倍になっちゃってんじゃん!!オメー1作目からなんも学んでねぇな?

まあこれに関して言えば、敗因は少年のセリフに凝りすぎたことと、少年の夢の中で過去の出来事を語るという幻想的な展開を無理なく演出しようと言葉を尽くしすぎたことだ。特に後者はひどかった。


むにゃむにゃ、ううん、ここはどこだろう。確か買い物に行って、帰ってきてがんばってにんじんを切って、一生懸命お鍋を用意したりして、そのうち頭がぼーっとして、体がふわふわしてきて、ええっとそれから…。


このように不自然な説明口調が長々と続いてしまっては頂けない。とどのつまり、あまりにも無理な設定を強引に話の中へ押し込もうとしたから字数も増えて違和感のある作品になってしまったのだ。なーにが話のテンポがいいだよ、自分で言ってて恥ずかしくならんのか?自画自賛してる暇があったら反省しろや。


『ベジタブル』の失敗を受けて、今一度話の設定や題材について見直すことにした。なるべく無理のないように、一つの場面だけで済ませることができるように、考えに考えた結果思いついたのが、ベッドの中だけで完結する『ドール』という作品だった。

プロットに関しては冨田ラボの『眠りの森』という曲を参考にさせてもらった。以前何かのエッセイで「音楽が好きではない」みたいなことを書いたが、実のところこうして音楽に助けられることが最近は多い。あのクソみたいな日々も無駄じゃなかったんだなぁ、としみじみ思う今日この頃である。じゃあ今も楽器を弾ける?と言われたら無理な話ではあるが。

隣で眠る彼女を見て美しいと思う、起きてる時は憎まれ口ばかりなのに、という歌詞を聞いた瞬間、冨田ラボの独特なコード進行も相まって本当に静謐で清らかな曲だと思った。そのまま採用しても良いかなと一瞬考えもした。でも、それではただの良い話になってしまう。私にはそんなもの書き切れる気がしない。小っ恥ずかしくなって最終的にメタメタにしてしまうに決まってる。そう、包丁で滅多刺しにするかのように...。ん?包丁、か。悪くないな。女性を静物として捉え、見た目の美しさだけを追求する男、動き出す前に永久に息の根を止めて美を保存しようとする男、そのために毎日包丁を研ぎ続けてる男、おーいいじゃんいいじゃん、いい感じにサイコパス出来上がったわ。やっぱ俺の作品はこうでないとな。結果的に包丁を研ぐシーンは挿入できなかったけれど、狂気を感じさせつつも綺麗にまとまった作品に仕上がった。珍しくハッピーエンドにもできた。文字数は圧巻の1097字。1097字??なんか少ねえな?舞台を限定したのはよかったけど今度は物足りない文量になってしまった。バランスを取るのは本当に難しい。掌編小説とは一朝一夕で書けるものではないということを改めて思い知らされた。

余談になるが、『ドール』のヘッダー画像に採用したのは『愛のコリーダ』という映画のジャケットだ。どんな話かは、まあ、ご自身で調べてもらいたい。刺激の強い映画であるとだけ言っておこう。


文字数を抑えるためベッドの中だけに舞台を限定してみたのは良いものの深刻なボリューム不足に陥ってしまった私は、もう少し場面を広げてみることにした。ある程度の広さを持つ閉塞空間、それが理想とする舞台だった。これまでみたいに1人寂しくおつむを働かせてるだけじゃいい考えも浮かんでこないと思い、今回はビリーミリガンさながら脳内に人格を大量に生み出し、あれこれ案を出させた。あそこがいい、ここがいい、いやお前のはだめだろ、あ?殺すぞ?やってみろよボンクラ。ボンクラはてめえだ低脳、ねえねえ!みんなやめようよ!穏やかにいこうよ!なんて脳内会議を小一時間続けさせて意見を募った。そうやって集めた案の中で一番理想に適っていたのが、橋の下という舞台であった。

タイトルに関してはレッチリの名曲から拝借したが、内容はまったくの別物だ。橋の下で日々を過ごす男、入れ替わり立ち替わり訪れて人間の暗部を見せつけてくる人々、洪水の中での静かな読書、感覚器官のほぼ全てを失った犬の登場、そして男の最後、これら全てを最初にメモ書きして構想し、それぞれの節の文字数もある程度決めた上で書き出した。

結果、ついに求めていた作品になった。

日常生活が掌編小説の題材として適していることはわかっていながらも、私はやはり作品に深みを持たせたかった。文章の裏に広がる宇宙を表現したいと思っていた。その願いが、ついに叶えられたのだ。
ホームレスを主人公とした作品に関しては一度構想したことがあった。しかし、うまくいかなかったから途中で書くのをやめた。当時は言葉の使い方をよくわかっていなかったのでくどい情景描写だらけになってしまい、ひどく冗長な小説になることが作品中盤で決定してしまったからだ。しかしこの度私は短い小説を立て続けに書いたことで言葉を削る術を会得することができた。そして満を持しての再挑戦。納得のいく仕上がりになった。

この小説に関してはそれまでの4作品のなかで一番気に入っている。最低限の描写で淡々と意味ありげな物語を進行させることができたのに加え、私が大好きな漫画家、諸星大二郎による『無面目』という作品を文中に織り込めたからだ。過去に何か辛いことがあったと思われる老人が最終的に全ての感覚を閉ざして幸せになることを望む『アンダー・ザ・ブリッジ』のストーリーと、『無面目』で描かれた「混沌」の悲劇をリンクさせる、それを果たし得たことはかなりの自信となった。そしてこの時、私はとうとう依頼された作品を書く準備が整ったのだと感じた。

と、しばらくたってからこんな連絡が入った。

「ごめんなさい、事情があって雑誌の話はなくなってしまいました。申し訳ないです。」


んー...。そりゃ、仕方ねえよな!

実際そこまで凹まなかった。人にはそれぞれ事情があるし、何より話を持ってきてくれただけで嬉しかったから、それ以上何かを求めたりするつもりなんてなかった。むしろこういう機会をくれたからこそ新たな技法や考え方を会得できたのだから、感謝したいくらいだった。この場を借りてその気持ちを伝えたいと思う。本当にありがとうございます!

ただ実はもうこの段階で提出する作品の構想が出来上がっていたので、それが問題になった。うーんどうしよう、お蔵入りにしてもいいけど、せっかく時間かけて考えたしな...。まあ別にこのまま書いて問題になるわけでもないし、書いちまうか!ということで、掌編最終作の執筆を開始した。これまでの経験の助けもあって、思いのほか早く仕上がった。


『宇-アメノシタ』というタイトルは、私のルーツとも言える『古事記』に因んでいる。「御宇」と書いて古訓では「あめのしたしろしめす」と読むのだが、これは天皇の統治を表した最高敬語だ。「宇」で「アメノシタ」と読むとはなんてエモいんでしょうと思った昔の私は、いつか何か作品を仕上げた時にタイトルへ採用したいと思った。数年の時を経てようやくここで使用することができたことに大変満足している。

地下世界の人工的な暖かさと、太陽が齎す灼熱の対比、それがこの物語の根幹を成している。人工と自然、快適さと苦痛、相対する二つの要素の中で人間が見出すものは何か。ぬるま湯に浸かりきった人間は本当に永遠とその状態でいることに満足できるのか。人間の持つ野生的で情熱的な本性の追求、それが本作の主題だ。

ここで疑問に思う方がいるかもしれない。日本人はお淑やかで穏やかな国民性だから、和テイスト満載なタイトルと凶暴な主題は相容れないのではないか、と。それに関しては一度『古事記』を読んでくれと、またヘッダー画像に採用した『火山列島の思想』という本を是非読んでくれと言いたい。この2冊を読むだけで日本人というものが元来どれほど情熱的な民族だったのかを知ることができる。その子孫たる我々に情熱的な感性が備わっていないということはありえない。これが私の考えだ。

ちなみにこの作品、脱稿してから何度も書き直している。投稿された後にすぐ読んでそれきりになっている方は是非もう一度読み直してもらいたい。かなり違うイメージを持つことだろう。
どうしてそんなことになってしまったかといえば、やはり1200字に無理やり落とし込もうとしたからだ。その結果改めて読んだ時にちぐはぐで中途半端な印象を持ってしまい、何度も修正を試みることになった。最終的に別にもうこれ提出する必要ないんだから字数超えしてしまってもいいかと開き直り、文量を大幅に増やしてようやく今の形に落ち着いた。これ以上変えることはないと思う。多分。まあでも、たまに読み直してもらえると素直に嬉しいから、是非読んでね(ニッコリ)。

そういえばもう一つ話しておかなければならないことがある。本作の末尾でLed Zeppelinの『胸いっぱいの愛を』のリンクを貼り、この曲を下敷きにして作品を執筆したと言ったが、実をいうともう1曲参考にした歌があるのだ。それがこれである。

英語の歌だが、要約すると「私はサーカスの虎の檻の中で見捨てられた残り物の骨なんだ。どうすることもできず、ただ横たわっているだけの存在。君たちはどんなに辛いことがあっても目を閉じれば夢の中に逃げ込むことができるだろう?でも、僕にはそれすらできないんだ。」という、実存主義的であまりにも悲劇的で乾いた曲なのである。
初めてこの曲を聴いた時はその淡々として幻想的な雰囲気にカフカと同列のものを見出し、深く感銘を受けた。と同時に、骨になってしまったといっても思考する能力があるなら活路を見出せるのではないか、とも考えた。そうして本作の主人公、「夫に食べられた情熱的な女の骨」が生まれたのである。本当に『宇-アメノシタ』という小説は、様々な要素が絡み合って生まれた奇跡的な作品だ。


と、ここまで5作品の掌編小説について振り返ってみた。本来であればこのエッセイは『宇-アメノシタ』のあとすぐに投稿する予定だったのだが、諸事情が重なってずるずると先延ばしになってしまった。本当に申し訳ない。その釈明や連載小説の執筆に関しては後編でたっぷり解説していく予定なので、どうかもうしばらくお待ち頂きたい。


土曜日くらいまでには投稿します。多分!



To be continued…

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