【人生について語る④】/他人との境界線
こんにちは。
「急激に変化する現実と自己の折り合いをつける」―――Mystic Pioneer(ミスティック・パイオニア)―――DEUKUです。
前々回はでうくの子どもの頃の境遇、前回は心の病からいかに這い上がったかについてまとめました。
基本的には、孤独を感じながらも自分の力だけでなんとか打開しましたよという自負が強いでうく。
そのスタンスは現在も変わってはいませんが、職場でのつまずきの原因が明らかになった件もあり、もう少し対人のことについても掘り下げてみても面白いと思ったり。
職場でのつまずきに関しては、マガジンも作成していますので、興味のあるかたはぜひ読んでみてください👆
今回の記事では、これまでの体験を踏まえて以下に掲げたテーマの太字部分をメインに語りたいと思います。
このテーマで語りたいこと
“育ち”によって生じる心の病、人に対する思いなど
恋愛・結婚・家庭に対する考え方
大人になって解決したこと、なおも影響するもの

5. 他人との境界線
「三歳児神話」の庇護のもと、4~5歳まではあたたかな環境で生きることができたでうく。その後は20年以上にわたり、人ではなく“心の病”と付き合うことの方が多かったが、人に対する憧れや好意がなくなることはなかった。
生後たった4~5年のあたたかさが、その後の人生をずっと支えている。
○ 「いらない子」と感じていたのは母の方?
家族と腹を割って話すことはないが、成人してある程度の時が経ってから、母にこう言われたことがある。
「あなたは、親なんて必要ない子なんだと思ってた」
わたしはこのとき、言葉の意図を図りかねたが、どうも「親に懐かない子どもだった」と言いたかったようだ。
母は母で、わたしへの接し方に悩んでいたようだ。何せ、「意地悪な子」「冷たい子」と言ってくるほどである。もしかしたら、母の方が情緒的な繋がりを求めていて、わたしの方が妙に大人びていたから、戸惑いが大きかった、なんてことがあるのだろうか。
と、いうのも、わたしは他の同級生よりも早く生まれたこともあり、おませさんな一面があった。
また、占い師さんとのカウンセリングで気づいたことなのだが、母からそう思われた要因は、母から突き放されたときに追いかけなかったことが大きかったようだ。
確かにわたしは「そんな子はいらない」と言われたときに「そうか、わたしはいらない子なんだな」と納得してしまうような子どもでした。この頃から自分を変える気がなさすぎる(爆)
母としては、もっと必要だと思ってもらえるよう健気に頑張る子を期待していたんだろうなあ。
いらない(=養ってもらえない)のであれば、自分は自分としてどう生きていくかという方向に思考の働く子どもでした。生きようとする気力が強すぎますね(爆)
こう考えると、わたしの方が心が離れるのが早く、そのかわいげのなさが母の心を刺激したのかもしれませんね。
このことに関しては、『自他境界』がかなり確立されていた気がします。
○ 母の嫌う「お調子者」タイプ
わたしが母に叩かれるとき、この言葉を伴うことが多かったのでした。
何のことなのかわからず、顔を覆って目を白黒させるばかりのわたし。
顔を覆う理由は、表情で感情を覚られて母を刺激するとますます叩かれるのと、顔を叩かれることが多かったから。
自分は調子に乗っているつもりはないのに、どうしてそう思われてしまうのだろう。
この年齢になるまでわからなかったのですが、最近、実感を伴う理解がありました。
わたしの同級生は子どもがいる人もそれなりにいて、年齢的には5~7歳に達する子がちらほら出てくるあたりでしょうか。
(あ、、、)
この子、わたしとタイプが近い、というか、わたしもそういえばこうしてた、と感覚を呼び起こす子に出逢いました。
わたしはこの子から見て「お母さんのお友達」という位置づけ。
この子は全く人見知りをせず、むしろとても人懐っこくて、手をつないで「ねぇねぇ一緒に来て」と遊びたがるタイプでした。相手が大人でも物怖じしません。
「・・・・・・この子人たらし要素あるね!?アヤシイ人に狙われないよう気をつけとくんだよ!?お母さん!!」
一緒にいた友人数名と口を揃えて言ったのでした。
愛嬌がピカイチの可愛らしい子。ただ、敢えて悪意のある言い方に変えると「主役を奪っていく子」とも言えます。
そのことに気づいたのは、その子の母親にあたるわたしの友人と次に会う時期の相談をしていたときに「一度は子どもを他の家族に預けて、学生時代の関係で君たちと遊びたいんだ」と本音をホロリ零されたからでした。
そうだよなぁ。わたしにとってはその子はあくまで友人の子であって、友人の方が主役なんだけど、親という役割がある以上、友人はその感覚を抱きにくいし、その役割から逃れてもいけないんだ。
わたしの場合は、母が友人を家に招くことの方が多く、わたしも近所に遊びに行くことはあれど行動範囲が広がる年齢には達していなかったので、母の友人が来た際に家にいることが多かったのでした。
そして、確かに先述した子と同じ行動をしていました。
母はイライラしたことでしょう。母の友人が帰った後の母の態度の豹変は凄まじいものでした。
「あの人は子どもの世話をしに来たんじゃない」
そうしてまた、3時間にわたる暴力とお説教が始まるのです。
同様に、きょうだいには支援のコミュニティがあるのですが、当然のことながらそのコミュニティの主役はきょうだいです。おねえさんも都合が合えばどうぞという程度の誘いであり、誰もわたしに合わせてはくれません。
わたしが主役になる場面は、全くもって存在しないのです。
でも、これまでの記事からも窺えるように、わたしは根拠なくどこまでも自分が人生の主役であるという確固たる自信を持って生きていますから(笑)、やっぱりそういった振舞いをするのです。
コミュニティから帰宅した母の荒れようも凄かったです。
「あんたが出しゃばるものじゃない」
叩かれながら、自分はそういった“あたたかい世界”とは無縁なんだな、と冷ややかに感じていました。
主役になれる舞台も、守ってもらえる場所もない。
理由がわからないながらも、わたしが表に出ると母は不機嫌になるとなんとなく感じてはいたので、来客があってもいない振りをし、コミュニティへの参加も控えるようにしました。
父や母、きょうだいがそれぞれの社会を構築して人とともに生きていく中、わたしは孤独に、強迫と戦っていました。でも、そのさびしさもつらさも、家族は知りません。
○ わたしが「狂わせてしまった」人生
わたしが人と関わると碌なことにならない、という認識は、特に子どもの頃、母とわたしに共通してあったかもしれません。
6~7歳の頃でしょうか。近所に赤ん坊が生まれました。
その子とはその後4~5年の付き合いはあったでしょうか。赤ん坊からの4~5年は成長が凄まじいですよね。ずんぐりむっくりで寝返り程度しかできないぬいぐるみのような見た目から、身長は何倍にも伸び、体型も引き締まって自由に走り回るようになる。言葉も、単語すら出てこない音だけの喃語から、自分たちと近い語彙力で立て板に水の如く話すように。
そういった変化を間近で見ると、やはり人間の神秘に惹き込まれるものがありますね。
わたしは足繁くその子の元に通いました。
恐らく“ふつうのきょうだい”がいることへの憧れもあったのだと思います。
母からは「あなたとその子は年齢が全然違うから遊ぶのはやめときなさい」と、言われました。
当時、わたしはその言葉の意味がわかりませんでした。
わたしの家の近所は同級生が少なく、年上や年下、様々な年齢の子と遊んでいたからです。
5~6歳上の人と遊ぶこともありました。
しかし、5~6歳上の人と遊ぶのは「たまに」の話で、しかも、例えば5歳違いだと「小学1年生と小学6年生」になります。小学生同士の括りです。
同じ5歳違いでも「0歳と5歳」は全く事情が変わってしまうのですよね。
「0歳と5歳」では“遊び”ではなく、“お世話”になってしまう。
それをわたしは理解できていなかったのです。
後年になってそのことに気づき、母と話したとき、母からは
「あのときのあなたは、“友達”ではなく“お人形”が欲しいんだろうなと思って見ていた」
と、言われました。
「お世話してくれる人や“譲ってくれる”人が常にいる環境で過ごすと、その子は自分から声を上げることや自分の希望が必ずしも通るとは限らないことを知らないまま大きくなってしまう。学校生活でつまずくと思ったから、その子の親にも相談したけど、『お世話してくれて助かっているのでこのままでいい』と言われたのよね。だから、1回忠告しただけであなたを止めることはしなかった。
その子は小学3年生くらいのときに不登校になったと聞いている」
―――これは、人ひとりの人生を狂わせたな、と思いました。
かなり表情に出ていたようで、母からは珍しく
「あなたのせいではないよ」
と、慰められました。
「その家庭の方針もあるし、その子自身の素質もあると思う。
あなたが同じ境遇に置かれても、その子と同じようにはならなかったと確信している。
生きることってそんなに楽じゃない。どんなに他力の人生でも『自分の力でどうにかしなければならないときがある』と気づく力がなければ、この先どんなプラスの出来事があっても最大限に活かせない。
他責は何にも生まないってことよ。だからあなたも気にしなくていい」
母はそう言うが、わたしは、その子と同じ境遇に置かれたときに同じようにならない自信はない。
おくびにも出ていないと思うが、わたしは実は子どもが苦手である。
嫌いなのではなく、どう接すればよいのかわからないからだ。
そしてそれは、この経験が影響している。
○ 夢の中で生き続けた「幼なじみ」
わたしの幼なじみは、中学生のときに亡くなりました。
その子は、親同士の交流があったなどではない、初めて自分自身で作った友達でした。
小学校に進級する前は顔を合わせたときに遊ぶ程度でしたが、小学校では同じクラスになりました。
親も必然、その子のことを知ることとなり、ある日、
「あの子は、命にかかわる病気を抱えているんだって」
と、言われました。
この言葉の後、その子の身に何かが起きた際の対応の仕方や、日常的な関わりの中で注意すべきことなどを教えられています。
その子は小学校の出席率は半分程度だったでしょうか。中学生になってからは殆ど会っておらず、恐らく中学校にはほぼ通えず闘病していたものだと思われます。
思春期に差し掛かるに従い、同級生への呼び名が変容していく中、その子だけはいつまでも変わらず純粋で、最後までわたしを下の名で呼び続けていたので、気まずくて仕方がなかったなという淡い記憶があります。
葬儀には母と参列しました。
死に顔も見ていますが、どのように受け止めればよいのかわからず、「安らかな表情・・・だったね」とドラマでよく聞くような言葉を言うと、母は、
「どうかなあ・・・」
と、言いました。
「“もっと生きたかった”・・・という表情にあたしには見えたけど」
その言葉がとても印象的で、みんながみんな未練なく死ねるわけではないこと、そもそも、本人がどう思っているかを他人が勝手に解釈するのは違うことだな、と感じたのでした。
以降、頻繁、というほどではないですが、夢にその子が現れるように。
何の夢なのかはさっぱり思い出せないものの「幼なじみが出てきた」ことだけを憶えている。
年に数回、大人になってからも、ずっと。
実は、ここでも「お調子者」のわたしは「やらかし」をしていて、新しくできた別の友達を優先させたり、からかい遊びのターゲットにするなど、今考えるといじめに片足を突っ込んでいるようなことをしていました(その子からの好意の矢印があからさまだったのが怖くて突き放そうとしたという事情もありましたが、それは理由にはなりませんね)。
ただ、その子も黙っているような子ではなく、相応の報復もしっかり受けたので、自分の行動がエスカレートすることはありませんでした。
ここでわたしは「いじめって“したくなるもの”」なのだという本能的な理解と「わたしの場合は、道を外そうとすると必ず“しっぺ返し”(是正)を受ける」こと、そして何より、「その子はわたしが思っていた以上にわたしのことを信頼していて、その子を深く傷つける行為をした」のだと、実感を伴う理解をしました。
その子はその後も変わらず好意を寄せ続けてくれていたので、その純粋さに眩しさと(罪悪の思い)、理解しがたい思い(「わたしだったら縁を切るのに」)や恐怖(報復内容がなかなかにトラウマティックだった)が綯交ぜになって、複雑な感情を抱いていました。
その子は、表も裏もない一貫した関係であり続けた人であり、人との付き合い方を生身でのぶつかり合いの中で学ばせてくれた人であり、人間のもつ様々な側面、感情・本能・思い・考えを浮き彫りにしてくれた人であり、人が生きるということ、死ぬということを身近に感じさせた人でした。
中学生のときからですから、かれこれ20年くらいでしょうか。
それほど頻繁ではないにせよ、ずっと夢枕に立ち続けていました。
その子が夢に現れ続けていたのは、その子に対する後ろめたさを引きずっているからなのではと思っていました。
なんとなく、わたしが死んだらわたしの魂はその子のところにいくのだろうと。
そういえば、ここ2~3年は夢に出てきません。
許してもらえたということなのか、それとも全く関係ないのか。
ただ、現在もこうやって、たまにふと思い出します。
○ 人生最大の「モテ期」は小学生!?
でうく評として時折言われるのは「隙だらけに見えて意外に隙がない」。
ちなみに、でうくの自己評価としては「1やったら1抜けるほどのうっかりさんなのに、どうして・・・?」
つまり、自分でも自分を隙がない自覚がなく、「異性に声をかけられやすくするには、もう少し隙を作った方がいいよ」と言われてもどうしようもなかったりします。
催眠もものすごく効きやすい体質なのになあ・・・(爆)
ただ、思い当たる節としては、そういえば、小学生のときは知らない男の人から電話が来ていました!(・・・!?)
当時はまだ固定電話が主流の時代で、セールス電話の撃退などはわたしが担当。
それらの電話に混じって、わたし個人を指名する男の人の声が年に数回ありました。それが2年くらい、同じ人のときもあれば違う人のときもあり、その時代がもしかするとモテ期の絶頂だったのかもしれません(爆)
相手はわたし個人の名前と、もちろんですが電話番号も把握している。
「・・・・・・あなたの名前を教えてもらえますか?」
そう訊いて、名乗ってもらえる場合ともらえない場合がありました。
電話の目的を尋ねると「好きです」とか「会いたい」という内容。
「??わたしとあなた、一度も会ったことありませんよね・・・・・・?」
好きになった理由や会いたい理由を尋ねると「すれ違ったときや遠くから見たときにかわいいと思ったから」。
「つまり、面識もないということですね?
わたしの名前と電話番号、いったいどうやって知りましたか?」
今思うと小学生にしてかなり冷静な対応をしていたなという感じですが、当時は「え、そっちばっかわたしのこと知っててずるい。あなたの情報も寄越しなさい」という負けず嫌いの精神が働いていたような気がします(爆)
そうやって一通り確認した後、
「お言葉ですが・・・」
と、
「そうやって一方的に好きと言われても、どこの誰かもわからない人に何か判断することはできません。では、会って判断すればいいではないかと思うかもしれませんが、わたしはまだ子どもだし、世の中誰が怪しい人なのかわからないから会ってはいけないと親から言われています。だから、すみませんがあなたの気持ちに応えることはできません」
相手がしつこい場合は
「・・・・・・では親に訊いてみます。親も一緒であれば会ってもいいと言われるかもしれないので。電話番号を訊いてもいいですか?」
ここまで言えば、その後しつこく電話がくることはありませんでした。
思えば、クレーム対応の仕方とやや似ています。
当時は、セールス電話の撃退の仕方を参考にしていました。
2年めくらいになると母も違和感を抱き始めたようで、ある日、
「あなた宛ての電話が増えてきている気がするけど、友達?」
と、訊かれ
「いや、知らない人」
と、答えました。
母からわたしに電話を繋ぐこともあったので、電話の相手が男の人であることは母も知っていました。
わたしの中ではセールス電話と同じ括りであったため、母にいちいち報告することはしなかったのです。
あくる日、母から
「でうくの体も大きくなったから、そろそろ自転車の買い換え時だね」
と、言われました。
“そろそろ”と言われてからの実行がひと月以上経つこともざらにあったので、あまり本気に捉えていませんでした。それに、自転車のインチは確かにやや合わなくなりつつあったものの、運転には全くの支障がない範囲です。
でも、このときはすぐに母に自転車屋さんに連れて行かれました。
自転車を買い換えると、いつもはその自転車に持ち主のフルネームと自宅の電話番号を書いたシールを貼ります。我が家のやり方というよりはそういう時代で、どこの家庭もやっていました。
これは、持ち主が行方不明になったときや自転車を紛失したときに備えてやっていたものの、
「・・・今回はやらないの?」
そう訊くと、母からは
「でうくも大きくなったから、自分の自転車がどれかもうわかるもんね」
と、返ってきました。
でうく、なるほど、と思う。
電話をかけてきた相手は、でうくが自転車を駐輪場に置いた後、駐輪された自転車を見て名前と電話番号を控えたと言っていました。
母にもそのことは報告していたのです。
近年になり、セクハラなど性に関する話題が大きく取り上げられ、男女の対立が深まりを見せる中、わたしは特に何もないけどみんな大変だなぁと高みの見物をしていたのですが、異性への警戒心を身につけたという点ではわたしもいっぱしに経験しておりましたね。
まぁ、これも人間が動物である以上は永遠に解決しえない問題なのかもしれません。
わたしは、いじめにしろ性加害にしろ暴力にしろ、人間の本能に刻み込まれているという前提でそれらを防止・軽減するための仕組みづくりをする他ないと思っています。否定したところで存在するのだから仕方ない。
何のために他の動物より容量の比率が高い脳を与えられているのか?
脳の使いどころを考えるべきだと感じる派ですね。
○ 親になってはいけない人
これまで長々と対人エピソードを振り返ってきましたが、う~ん、思っていたより治安の悪い生き方をしていたなぁという感想です(爆)
不審者はいるし新興宗教はびこっているし虐待家庭はあるしで地域的な治安も良くなかったのかもしれない。
わたし自身も、外見に反して粗暴と言われることが時折あります。
周りが受ける印象よりも気が短く、本性を隠す気もないので、ズバッと言う、口が悪いとびっくりされることがあります。その側面が母からはたびたび嫌われてきました。これは恐らく父譲りです。
加えて、これは完全に無意識だったのですが、手を上げることにあまり抵抗がありません。
これが、わたしが親になってはいけない人だなと感じた決め手でした。
恐ろしいのは、手を上げることへの抵抗感が薄いと自覚したのが成人してかなりの年月が経ってからということです。
親のしつけもありますが、きょうだい間でもやはり「言ったところでわからない」という認識があったので、喧嘩をするときはいつも取っ組み合いでした。親と違い加減もないので、手の平ではなく拳ですし、急所にヒットすることもありました。
互いに体が小さいうちはいいですが、成長期に差し掛かるとダメージの受け方が変わってきます。
腕力差が出てきて、わたしの方が痛みが長引くことが増えてきたのです。
一度、不可抗力ではあるもののきょうだいの肘がわたしの右目に直撃し、目の感覚が数日おかしくなることがありました。そのときは父が飛んで帰ってきたそうで、きょうだいに言って聞かせたらしく、それ以来きょうだいはどんなにわたしが挑発しても一切手を上げなくなりました。
わたしはというと、そういった父の働きがあったことにピンとこず、相変わらず「力こそ正義」を地で突き進んでおり、今なお修正されたとは言い難いです。
「一発殴れば早そうだがなあ」と頭をよぎることはしょっちゅうで、その腕力がもうないこともそういう時代でもないことを考えて踏みとどまっている感じです。
脳みそがあるのは、力のない者が生存率を上げるために力のある者に対抗する力として与えられたものだと思っているため、使い倒さずしてどうするという考えです。
力で敵わないなら言葉で殴る。こう考えると、わたしの生への執着はなかなかに凄まじいとこの記事を書きながら思いました(爆)
ただ、ここまで生への執着があっても、わたし自身には何の生産性もなく、むしろいていい人種なのかも微妙に感じるときがあるので、せめて犠牲の少ない形で自身の生を全うできるのがベターかなぁと考えております。
おわりに
ここまで言ってしまうのはまずい気がしなくもないですが、わたしは自死にそれほど否定的ではありません。
生き地獄という言葉があるように、いっそ死んでしまえたらどんなに楽になるだろうと感じること、確かにあると思います。わたしも、強迫の時期、社内ニートの時期、死にたくてたまらなくなったり、生きている感覚がしないことがありました。
何故、生きなければならず、生かされているのか。
それはシンプルに、体が生きようと頑張っていることと、この国で積極的な死が認められていないことの2点のみだと思っています。
究極的な言い方をすると、生まれてきた時点で生物的・社会的に義務だらけで、「生存の義務」があるから果たしているだけ。とても偉いことです。
生物と社会、いずれかの義務が取り払われれば、死も生命における立派な在り方の一つだと思います。
ただ、といったところでいうと、「これがあれば生きる気持ちになれたのに」「ここが整っていれば生きることができたのに」という、「本当は死にたいわけではない」人たちが消去法で死に救いを求めている場合においては、生に救いがないことが問題なので、生きる“義務”を設けるならば生きる“救い”も設けなければ割に合わないと感じています。
『あなたが死にたいと言った今日は、昨日死んだ人が生きたかった明日』
SNSでよく紛糾しているこの手の言葉、真実の部分は当然あるでしょう。
ただ、そこを論じる意味はあるのか。
生きようと最期まで頑張ったであろう幼なじみ、死にたいといくらか願ったわたし、なんとなく両方を知る身としては、どちらかしか肯定できない類のものなんですかねこれ、と思ったりする。
それよりも、拳も人を傷つけますが、言葉も十分、人を傷つける威力があることを考えた方が良い気がします。
言葉で人は殴れるのです。また、本当のことだから何を言っていいわけでもない。
そんなことを言ったら、弱肉強食なのもまた、真実です。『あなたが死にたいと言った今日は、昨日死んだ人が生きたかった明日』という言葉が否定される程度には、生きた者の社会なのがこの世なのだと思います。
次回について
次回が恐らく最後の記事になりますね。
次回はまとめ、現在のわたしを構成するもの、人生の余波について語りたいと思います。
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